海の向こうは見果てぬ国
駅のホームに列車が滑り込む。今日の最終便だ。駅員は乗客たちが降りてくるのを見守った。
その中に二人の少年がいた、お互いそっぽを向きつつも明らかに連れだと分かる距離で歩いている。
もう深夜に近い時間に、未成年が出歩いている。駅員は声をかけようとした。
その時、駅員の前を大柄な男性がくたびれた様子で横切った。
視界が開けた時、少年達の姿は消えていた。
「これからどこに行くの?」
透明マントの中で、ハリーはドラコに聞いた。
一通の手紙だけよこして、ハリーをロンドンまで誘い出したドラコは、ここに来るまでずっとだんまりだった。
無言の相手には慣れているので列車に揺られていた2時間は触れなかった質問をとうとう口に出した。
「港。」
単語だけが返ってきた。まるで説明にならない。この危機的状況でドラコはいったいどうしてハリーとここに来たかったのだろうか。
全く予想がつかない。
「何をしに行くの?」
次いで聞いたがそれには答えが返ってこなかった。
ドラコはぎゅっと強くハリーの手を握り直し、夜に沈んだ街を海に向かって歩いている。
潮風が坂の下から巻き上がって、マントとハリーの髪を揺らした。
湿っぽくべたつく感覚が少し気持ち悪い。磯のにおいがどんどん強くなっていく。暗闇の向こうから波が岸に打ち付ける、ザザーンという音が聞こえてくる。
ひび割れたコンクリートの坂をはずむように下る。やがてオレンジ色の明かりの下に出た。眼前に広がるのは海だった。
その少し手前に港があった。港はいまだ起きていて、船積物の積み下ろしが行われている。
「こっちだ。」
ドラコが白い建物の方へハリーを連れていく。空港のターミナルのような外観だ。
自動ドアをこじ開け、中に侵入する。無人の施設内は青い光に照らされていて、少し不気味だった。
透明マントを羽織ったままエントランスを抜け、二階へ上がる。
受付の脇を通り、左右にたくさんのベンチが並ぶ廊下を歩く。そのうちに、ぽかりと群青の夜空がのぞく穴を見つけた。
それは橋に続く出口のようだった。ハリーはその穴を覗き込んだ。
橋の向こうに船の甲板が見える。
……ドラコは船に乗るつもりなのだ。
気づいた瞬間、ぎゅっと足を踏ん張ってブレーキをかける。
船になんか乗れない。今、イギリスを離れるわけにはいかなかった。
この船がイギリスの周りを回遊するクルーズだとは思えない。きっとドーバー海峡を抜けて大陸へ航海するはずだ。
「なんで止まるんだ?」
心底不思議そうな顔でドラコが聞いた。あまりにも不思議そうだったから、ハリーは自分が旅を了承したかのような気分になった。
「なんでって、僕が外国に行ったらみんなに迷惑がかかる。」
ハリーも不思議だった。なんで僕が行くと思ったのだろう。そう思った。
「行くだろう?ここに居たら君は死ぬぞ。あの人に狙われて生きていられるわけがない。」
ぐっとドラコが腕に力を込めた。ジワリとかすかな痛みを覚える。
「それに、ダンブルドアを殺せなんて無理だ。……失敗したら殺される。」
彼は蒼白になった唇を震わせていた。哀れっぽい目でハリーを見つめる。
「だからって逃げるなんてできない。僕がいなくなったら、たくさんの人が死ぬ。」
髪が顔を叩くほど、ハリーは激しくかぶりを振った。
「じゃあ、僕に死ねっていうのか?!」
ドラコの叫びはほとんど悲鳴だった。声の反響がハリーの胸に刺さっていたくなる。
「まだ、分からないじゃないか。君も、僕も、生き残れる道があるはず。そのために戦わなきゃいけないんだ。」
「……勝算のない賭けだ!」
ドラコが唐突にハリーの胸ぐらをつかんだ。
「お前はあの人の強大さをわかっていない。今逃げなければ外にも出れなくなる、僕は、死にたくない……。」
そのまま力尽きたようにずるずると座り込む。
骨ばった手がハリーの服の裾を握った。
「君一人で行けばいい。」
ハリーは彼を突き放した。立ち向かわず逃げればいいと思っていた。
「僕は行けない。友達を残して行けるわけないだろ。」
「……僕は君にも死んでほしくない。」
沈んだ声でドラコがつぶやいた。ハリーの心臓を針で突き刺されたみたいな痛みが心を襲った。
「まだ死ぬと決まったわけじゃない。」
「死ぬさ!きっと死ぬ!僕も、君も、あの人に殺される。」
ドラコの声を巻き上げるように、潮風がひと際強く吹いて、橋の上に立ち尽くしている二人の体からマントをはがした。
飛んでいきそうになるそれを、ハリーは寸でで掴んだ。
「弱虫なのは知ってたけど、ここまでだとは思ってなかったよ。」
ハリーは立ったまま、自分に縋り付いている恋人を見下ろした。
感情の箍が外れたのか、彼の顔には涙が筋を作っている。
「僕は、君を選んだ。僕が逃げたら、父も母も殺される。なのになんでお前は僕の手を取らない……!」
下ろしている手首を加減なく握られた。骨を押しつぶさんばかりの圧力に、ハリーは眉をしかめた。
滂沱の涙を流し、訴えるように叫ぶドラコと視線を合わせるためにかがむ。
そっとうつむいた顔に触れ、視線を上げさせる。
「僕は逃げない、僕は君を選ばない。僕は、全員、死なせない。」
上から灰色の瞳を覗き込んで言った。薄暗い橋の上には背後から差す、非常口の明かりだけが届いていた。
「君に死んでほしくない……」
鼻をすすりながらドラコが再度言った。
ハリーはぎゅっと目を閉じて、ふい、と顔を逸らす。
本当は怖くてたまらない。自分を殺したくて仕方がない奴が最強の闇の魔法使いなんて、怖がらない方が無理だ。
逃げたいし、死にたくない。何の事件もないホグワーツで友人やドラコと楽しく学生生活を送りたい。
だけど、ハリーは立ち向かわなくてはいけなかった。ここでドラコの手を取って、二人で逃げたとしても、きっとヴォルデモートは地の果てまでも追ってくる。
一度、己に土を付けた相手を殺すまで、彼は決してあきらめない。だから、ハリーは戦って勝たなくてはいけなかった。
それがハリーに課された使命だった。
弱さに負けそうな心を、ドラコの手を取れと暴れる心を、押しつぶすのには長い時間が要った。
二人はそのままの姿勢で固まっていた。海から吹いてくる風だけがごおごおとうなり続けている。
やがて、長い沈黙に耐えかねたように、ドラコがポツリとつぶやいた。
「ハリーと共に生きたい……。」
(僕だって、そうしたいさ。)
同意は言葉に出来なかった。心の中だけで零す。
下を向いていたら、涙が出てきそうで、ハリーは暗い海を見つめた。
ちらちらと灯台の明かりが動いているのが見えた。
真っ暗な海は空と一体化していて、その中で灯台だけが不自然に浮いて見えた。
(僕のこれからは、おおよそあの明かりに吸い寄せられて、海の上を歩いていくみたいなものなのだろう。)
一歩歩むごとにいつ沈んでしまうかわからない不安に駆られながら、それでもはるか向こうに輝いている遠い未来のために、歩みを止めることを許されない。
(君と船に乗って行けたら、どれほど良いだろうか。)
依然として泣き続けるドラコの頭を、ハリーはぎゅっと強く抱きしめた。
磯の匂いが鼻をついた。潮風が二人の周りを包み込む。
海の果ては異界のところ、妖精に導かれる場所。僕らには、まだ、早い。
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