何も始まらない日
"…Are you going to Scarborough Fair…parsley,sage rosemary and thyme …"
真白い病室に少女の歌声が小さく響く。聖マンゴの一室にはおおよそ似つかわしくない、マグルの歌。それは少女の母親のために歌われた歌だった。
囁くように祈るように、寂しい声だった。その寂しさゆえにどこか人を惹きつける。
しかしその母親の耳には届かない。心が遠くに行ってしまったから。
けれども気にせず少女は歌う。かつての恋人を思う歌を。
…
ドラコ・マルフォイは退屈していた。父に連れられて病院に来たはいいが、その父は院長と何やら話があると挨拶だけさせて早々にドラコを部屋から追い出した。
きっとまた寄付の話だ。金持ちの我が家はこうして寄付を振りまいて後々色んなところで便宜を図らせる。
こういう話は大抵長い。それなのに、病院には見所も暇をつぶす場所もない。ドラコは父親に対してぶつぶつ文句を言いながら院内をぶらぶら歩いていた。
今ドラコがいるのは呪いをかけられた患者が集められている棟だ。
入院するほど強い呪いだから、割とどの患者も悲惨だった。
怖いもの見たさにコソコソ病室を覗いて歩く。
「ふん、僕が魔法を学んだ暁にはこのくらいの呪いお手の物さ」
誰にいうともなく呟く。顔が虚のようになってしまった男の病室を覗いて、やにわに恐ろしくなったのだ。
自分を奮い立たせるための虚勢だった。
どこまでも続いている穴を見てしまって、背筋に悪寒が走った。というのを認めたくなかったのだ。
それでも早々にその病室から遠ざかる。長居していたら穴に飲み込まれそうだった。
本当は走り出したい程だったが、なんとか早足に留める。
何個も扉を通り過ぎた時、ふと声が聞こえた。
誰かが歌っている。
声を追って角を曲がった。正面の病室から聞こえてきている。その扉は開いていて、中の様子が丸見えだった。
どうやら歌っているのはベッドの隣に腰掛けている少女のようだ。彼女はまだ廊下のドラコに気づいていない。それをいいことにドラコは少女を観察した。
濃い紅の髪に、涙ぐんだ緑の目。後ろから差し込む陽の光が白いカーテンを透かして少女の輪郭を照らしている。
見舞っているのは母親だろうか、ベッドの人物も枕に紅の髪を広げていた。
聞こえてくる歌は聞き馴染みのないものだった。おそらく古いものだろうと思う。物悲しい旋律が耳に残る。
少女のか細い声で歌われると余計に悲しさを増した。
「…嫌いよ…」
歌が終わり、少女がそのまま何事か呟く。何故だかとても気になって、ドラコはじっと耳をすませた。
「魔法なんて、嫌い。」
届いた声はドラコの心の臓を掴んだ。
魔法が、嫌い。それは己の根底を否定してくる言葉だった。だってドラコは魔法なしでは何も出来ない。そんなことを言う人間がいるという事実自体が衝撃だった。
「なんでそんなこと言うんだ。」
動揺はドラコの口を滑らせた。潜んでいるのもバカバカしくて少女の目の前に立つ。
突然現れたドラコに驚いたのか、彼女は目を見開いている。端に浮かぶ涙が一粒溢れた。
「お前だって魔女だろう?」
この病院にいて、患者を見舞っているならそうとしか考えられなかった。もしかしたらスクイブかもしれないが、どちらにしても魔法の存在を生まれた時から知っているはずだ。
しかし少女はドラコをキッと睨んで、力強く言った。
「私は魔女にはならないわ、絶対絶対ならないんだから」
何故、と素直に疑問に思った。せっかく特権階級に生まれたのに何故それを放棄しようと言うのか。ドラコには甚だ理解出来なかった。
「魔法を使わないで、マグルの真似して生きてくつもりなのか?」
馬鹿馬鹿しい、と鼻で笑う。きっとまだ魔法を使ったことがないからそう思うのだ。この少女だって、一度でも使って仕舞えば瞬時に手のひらを返すだろう。
「そうするつもりだけど?母さんをこんなにした魔法を自分が使うなんてゾッとするもの。」
「魔法を使ったこともないのに?」
「使うまでもないでしょ、私は魔法で父さんを殺されたし、母さんは寝たきりだわ。それなのにどうして使いたいと思えるの?」
ドラコが好き勝手言ったからだろうか、少女の目は怒りに煌めいていた。
「だいたい、突然話しかけてそんなこと言うなんて、失礼よ!」
声を荒げた少女は息を切らして肩を揺らした。そしてそのまま手のひらを目に押し当てた。高ぶった気が抑えられないようで、次第に嗚咽が聞こえてきた。ドラコは焦った。泣かせてしまった。こんな喧嘩腰に話しかけるつもりはなかったのに…
「…ご、ごめん、僕が悪かった。」
自分の山より高いプライドをなんとか曲げて、ドラコは小さな声で謝った。いくらなんでもドラコだってわかる。今回は全面的に自分が悪かった。少女の辛い境遇まで話させてしまった。
少女も泣き出す気はなかったのだろう、ヒクッと喉を鳴らしながらも、
「いいわ、私もキツイ言い方したもの…」
と許してくれた。
「ところで、貴方は誰?お見舞いに来たの?」
初対面ならまずするべき挨拶をすっかり飛ばしていた。ドラコはどう名乗るべきかと思案した。
「私はハリー・ポッターよ。」
ハリー・ポッター
ハリー、ポッター…?
聞いたことがないはずの名前だ。だけどどうしてか聞き覚えがある。
でも、違う、聞き覚えがある方は男性名だった。ドラコはぷるぷる頭を振る。
きっと気のせいだ、珍しい名前でもないし、どこかで似た名前を聞いたのだろう。
「僕はドラコ、ドラコ・マルフォイだ。」
まあ再び会うことはないだろう、と余計な一言を添えて名乗る。
ハリーが魔女にならないと言うのなら、実際もう会う機会はない。
彼女はホグワーツに来ないだろうし、学校に通わなければ魔法界に入れない。
そんな辛辣なドラコの挨拶にハリーは肩をすくめただけだった。
「確かにね、私はお見舞い以外で魔法使いの世界に来ようとは思わないもの。貴方、別にお見舞いとかじゃないんでしょう?ならもうこれきりね。」
その言葉にイラッとした。自分で拒絶しておきながら虫のいい話ではあるが、相手から軽んじられるのは腹がたつ。
「フン、自分で母親を助けようともしない腰抜けと仲良くなる気は無いから願ったり、だ」
吐き捨てられたドラコのセリフにハリーはカッと顔を赤くした。自分の停滞を言い当てられて恥ずかしかったし、それと同時に怒りが湧いた。
「私の事情を何も知らないくせに、偉そうなこと、言わないで!」
ばちんっ!
乾いた音が響く。
ハリーがドラコの頬を叩いたのだ。
ドラコは呆然とたたかれた頬に指で触れた。
「ほんと、失礼!さっさっと出てってよ!」
ハリーはグイグイとドラコの背を押した。ドラコは抵抗する気力もなく、押されるまま扉に向かう。今まで誰かに手を上げられた経験なぞない。
ぴしゃりと背後でしまった扉でも我に帰った。ドラコはぼんやりと父親の元に続く道を歩き出した。
足取りがふわふわとする。夢でも見たような気分だった。心ここに在らずといった体で部屋の前につったっている息子にルシウスは首を傾げたが、対して気にせずそのまま首根っこを杖で引っ掛けて連れて行った。
家に帰った後、腑抜けていた息子はどうやら風邪をもらっていたらしいことが発覚して、ルシウスは妻に怒られた。
そしてこの日の短い邂逅はその後の高熱に流されて、ドラコの心の奥深くにしまわれてしまうのだった。
もう一度出会っても、わからない。
そういう、はじまり。
2コメント
2021.04.11 14:00
2021.04.04 15:22