聞かぬは人ならず
ゆらゆらと揺れる。炎が揺れる。まるで踊るみたいに、溶けるみたいに揺れている。
鮮やかな揺れに音色すら聞こえてきそうだ。だが炎は無音である。炎に音色を感じるのはそれを見ている人間なのだ。
「人間以外の動物は音楽が騒音に聞こえるんですって。」ヴァルカンさんが言ってました。とアイリスがほほ笑む。
森羅はそれに何と答えたか、今はもう思い出せなかった。
『校内にて火災が発生しました。全員速やかに避難してください。』
けたたましいサイレンと焦げつく煙の臭いがこの放送が本物であると示していた。
パニックになりかけながらも中学生たちは雪崩のように校庭に走り出た。背後にたたずむ校舎の一角から火の手が上がっている。
校庭にマッチボックスが滑り込む。あわただしく降車する特殊消防隊員に、生徒達は焔人の存在を確信した。彼らは半狂乱になり、教師の制止も振り切って我先にと学外に逃げていく。
怒号の中森羅は校舎を前にしていた。焔人はこの学校の女子中学生だそうだ。自分より年下の少女があの炎の中で燃えている。
一刻も早く鎮魂せねばと、森羅は桜備の後ろに従い、校舎の中に入っていった。
校庭にはもう誰も残っていなかった。生徒を制止していた教師もパニックに飲まれたのかいつの間にか消えていた。
いや、一人だけ残っていた。焔人になってしまった少女と同じ年頃の女子生徒が森羅たちの消えた入り口を見つめていた。
そこに一歩遅れて一般消防隊が到着する。彼女はハッとした顔をすると、少し迷うように視線をさまよわせたが、消防隊員に気付かれないように校舎に入った。
「森羅!」
桜備の大声に森羅は身体に力を入れた。抉る打撃が腹に刺さる。それを腕で受け止めて、森羅は後ろに飛んだ。
すかさずアーサーが焔人に斬りかかり、環がしっぽを伸ばしたが、焔人はそれをやすやすと避け空中で回転し着地した。
「動きが速すぎる……」
シールドを構え、シスターを守りながら桜備が歯噛みした。
少女である焔人は体躯が小さく、非常にすばしっこかった。鎮魂しようにも攻撃が当たらない。
マキの炎操作や、火縄の弾道制御も決定打にはならず、ただ悪戯に焔人の体を傷つけるだけだった。
焔人は弾丸のように壁を跳ねまわり、逃げていく。
「森羅、追えるか?!」
桜備の指示に森羅はすぐ体勢を立て直す。
「ハイ!」
廊下のかなたに消えていく焔人を追って、森羅は飛んだ。
視界の端を残像が流れていく。リノリウムの廊下や、教室の壁、黒板。それらがまるで一瞬の回想のように目に入っては消えていく。
焔人は規則性なく動き回り、廊下や教室を破壊していた。早く鎮魂しなくては現場を破壊するだけだ。きっと少女もそんなことを望んではいないだろう。
森羅は幾度となく加速し、焔人の動きを止めようとした。
その時、ポンッとピアノの音色が聞こえた。
焔人がピタッと動きを止めた。
「まだ校内に誰かいるのかッ?!」
森羅は焦った。音の聞こえた方へ焔人が猛然と駆け出した。森羅も必死に後を追う。
廊下を逆戻りしていく。森羅を追いかけていた桜備達とすれ違う。
「大隊長、まだ人が残ってます!」
風に引きちぎられる声で森羅は叫んだ。
「なんだと?」
光のように遠ざかっていく森羅を見送って、桜備は冷や汗を垂らした。
途端、ピアノの音色が聞こえてくる。規則正しくリズミカルに、誰かがピアノを弾いている。
「桜備大隊長、上です。確か上階に音楽室がありました。」
見取り図を脳内で反芻し、火縄が告げた。
「……焔人は森羅に任せて、先に救助に向かう。」
桜備は逡巡したのち、焔人の鎮魂より逃げ遅れた人間を優先した。
森羅が捕まえられない速度の焔人との戦闘で時間を浪費するより、救助へ向かった方が確実だと考えたからだ。
森羅を除いた第8は階段を駆け上がる。
なだらかなピアノの音が燃え盛る炎に紛れて響いていた。揺蕩う水のようなそれは火事場においてひどく穏やかで場違いだった。
ピアノが流れてくる音楽室に桜備達はなだれ込んだ。
「大隊長……」
そこには森羅がたたずんでいた。追っていた焔人はどうしたのか、と桜備は口を開きかけて目の前の光景に唖然とした。
「……踊ってる。」
環が呟いた。
燃える炎の中焔人が踊っていた。足をあげ、クルクルクルクル。駒のように回っている。
少女が鍵盤をたたいていた。セーラー服を着て、午後の日差しの中、級友と音楽を楽しむように微笑んで、それでも泣いて弾いていた。
「とわちゃん……」
音色に嗚咽が混じる。焔人は踊っている。くるくる回って楽しそうに。
オルゴールの人形みたいだ。ここが炎の中でなかったなら、熱が肌を焼かなければ、煙が喉を詰まらせなければ、永遠に続いてもおかしくない光景だった。
「うぅ、消防士さん、とわちゃんを」
鎮魂してください。と少女は言った。桜備がパイルバンカーを構える。
「あ、」
森羅の口から声が漏れた。いやわかっていた。焔人化した時点で、死んでいるのだと。でも漏れてしまった。
”人間以外は音楽を理解しない”その知識がささくれのように引っ掛かった。痛い。死んだはずなのに焔人は人間だった。
「炎は魂の息吹……」
シスターの祈りが始まる。グイっと森羅の手をアーサーが引いた。
「祈れ。」
青い目が森羅を射抜く。森羅は唾を飲み込み、手を合わせる。
ピアノの音色が鳴り響く。シスターの祈りを天に届けるように。鎮魂歌ではない。空に瞬く星の音が、燃えてしまった少女を送る。
「……炎炎の炎に帰せ」
桜備が助走をつけ、焔人に接近する。
「ラートム」
少女だった焔人のコアを、鉄の杭が打ち抜いた。
焔人は最後まで踊っていた。
鍵盤がけたたましく打ち叩かれた。
「つぎ生まれてきた時も、また一緒に、踊って、ね」
少女が声をあげて泣き出した。友達だったのだ。燃えてしまった彼女は少女の一番の友達だった。
踊る彼女と奏でる少女。その記憶が水面に瞬く光みたいに消えていく。
桜備が少女を担ぎ上げる。マキが退路を開いた。
煙が巻き上がる。真っ白な視界の中、森羅たちは走る。泣き声と一緒に走った。
迷いそうだった。目の前が見えなくなる。森羅たちは少女の友人を鎮魂した。その事実がひどく鮮明だった。
脚が淀む森羅の手をアーサーが引いた。釣られて泣きたくなる自分の心の弱さが森羅は嫌いだった。
「俺だったら斬っていた。」
アーサーのつぶやきが耳に刺さった。
森羅だっていくら攻撃せず落ち着いているからといって民間人と焔人を同じ場所に止めておいてはいけないと分かっていた。
だけど彼女たちの最後の時を邪魔することも出来なかった。
「もう焔人は死んでいるからな。」
「……うっせぇ。」
森羅は何も言い返せなかった。身勝手な感傷でピアノを弾く少女を危険にさらした。知っている、そんなの。
「だから、きっとあの焔人は踊れなかった。」
一瞬、目の前の背を見つめた。青い線が光っている。
「……うっせ」
慰められていた。それを知って、森羅はもっと情けなくなった。自分自身が受け入れられない甘さを肯定された。
アーサーのわかりづらいやさしさに、寄りかかりたくなって、本当に嫌だった。
少女の泣き声が延々とこだましてる。その声は骨すら残らない死を迎えた焔人にとっては何よりの手向けなのではないかと、森羅はちょっと泣いた。
終わり
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