1-12 無知の過ち
「絶対にスネイプは賢者の石を狙ってない。」
ベットに寝そべり、天蓋を睨みつけながら今日の記憶に向かって言い切る。
ロンやネビルがどれだけ疑おうと、ハリーは意見を変える気はなかった。彼らにもそれを証明したいが、いかんせんスネイプの性格が悪過ぎる。
身内贔屓だし、グリフィンドールを目の敵にしているし、出来の悪い生徒はいじめるし、皮肉が言えそうだったら間髪入れずに口を開くし、すぐ減点する。
入学前から付き合いがある分、他の一年生よりスネイプのことをわかっているハリーはため息をついた。
気弱だけど優しげなクィレルとしかめ面で気難しいスネイプを並べて比べたら、クィレルに軍配が上がってしまうのは仕方ない。
ハリーだって、スネイプがリリーをものすごく大切にしてる姿を目の当たりにしてなかったら、彼らと同じ意見になっていたかもしれない。
「だけどどう考えてもクィレルの方が怪しいんだよね……。」
誰に聞かせるともなく呟く。しんと静まり返った深夜に聞こえるのはルームメイトの寝息だけだった。
どうにかしてクィレルの悪事を暴けないものか。ハリーはゴロリと寝返りをうった。
こういう時、ハリーはいつも自分がジェームズだったらどうするか考える。
学生時代、悪戯に明け暮れていた父親になったつもりになると、思いもよらないアイディアが浮かんでくる。
(そうだ、忍びの地図!)
ハリーは閃いた。あの地図ならば城中の人間がどんな行動をしているのか、わかる。
あれでクィレルを見張ればいい。
バッと上掛けを跳ね除けて、スリッパも履かずにベットから降りる。音を立てないようにしながらトランクを開けた。
底板を持ち上げるとその下にはノートほどの大きさのポケットがある。ここにハリーは忍びの地図と透明マントをしまっていた。
留め具を外して地図を引っ張り出す。
「我ここに誓う、我よからぬこと企むものなり。」
杖で二度叩いてインクを呼び出す。地図を持ったままベットに上がり、カーテンをきっちりしめた。
「ルーモス」
ほわっとした明かりが杖先に灯る。
ハリーはそれを地図の上にかざしてクィレルの点を探した。
大半の名前は寮に集まっていた。先生の名前だけが一つ一つポツポツと分かれていた。
その名前を指でなぞっていく。マクゴナガルは自分のオフィス近く、フリットウィックは東塔、スネイプとスプラウトは地下に名前があった。
(クィレルがいない……)
ハリーは顎を摘んだ。そのまま人差し指を唇の下に這わせる。
城中くまなく見てもクィレルの点は見つからない。ハリーは閉じていた部分を広げた。
校庭もある程度までなら載っている。温室、クィディッチ場、ハグリットの家。地図の上を指で歩くように探す。
(……あった!)
禁じられた森のほとりにクィレルの点が動いている。
こんな深夜に一体森で何をしているのだろう。ハリーは訝しんだ。
忍びの地図には森の場所は載っていたが、さすがに森の内部の情報まではなかった。
クィレルの点は森の深部で活発に動き回っていた。
どう考えても迷子ではない。闇の魔法生物の研究と言われれば納得しないこともないが、あの臆病(を装っている)なクィレルが深夜の森で研究をしているなんて、到底考えられなかった。何か後ろ暗いところがあるとしか思えない。
ハリーは引き続き彼を見張ることに決めた。
もし彼が明日も同じ行動をしていたのなら、おそらく明後日も同じだ。
忍びの地図と透明マントを使えばクィレルを待ち伏せして悪事を暴ける。
(そしたらスネイプが無実だって、証明できる。)
いまだウロウロと森の中を歩き続ける点を睨みながらハリーは思った。
忍びの地図を畳んで枕の下に押し込む。明日からは肌身離さず持ち歩いて、授業の間に確認しよう。
メガネを外し、杖をかたわらにおく。上掛けを肩まで引き上げてハリーはようやく眠りについた。
;;;;
翌日から、ハリーは授業が終わる度にトイレに行き、クィレルの位置を確認した。あんまり頻繁にトイレに行くので、ハリーを心配したメリダがこっそりと「お腹の調子悪いの?」と聞くほどだった。
ハリーは曖昧に微笑んで、ノーともイエスともつかない言葉を口の中でモニャモニャ回した。
お腹を壊し続けている子のレッテルを貼られるのは嫌だったが、教えられない。
どっちつかずなハリーの態度にメリダは勝手に『お腹を壊してるけど恥ずかしくて言えないんだ』と合点し、気遣わしげにハリーの肩をさすってくれた。
なんとも言えない気分になった。
日中のうちはクィレルにおかしな動きはなかった。
だいたい闇の魔術に対する防衛術の教室か大広間にしか点が動かなかった。
しかし夜、昨日と同じ時間帯に確認するとやはり森をうろついていた。ハリーは眉を険しくした。
(昨日といる場所が違う。いろんなところを動いてるみたいだ。)
待ち伏せするにしても、行動範囲が広すぎてハリーの足では追いかけられる気がしなかった。
(もう少し様子見をしたほうがいいかもしれない。)
直ぐにでも現場を捕まえたかったが、相手は大人の魔法使いである。慎重に行った方がいい。
ハリーは羽ペンと羊皮紙を取り出して、禁じられた森の地図を簡単に写した。それからクィレルがうろうろしていた場所を円で囲った。
この感じでどんどんと範囲を重ねていけばよく現れる場所がわかるはずだ。ハリーは自作の地図を満足げに見た。
良い出来に思えて、誰かと共有したくなった。そもそもクィレルのあとをつけるには誰かの協力がいる。ハリー一人で追いかけて行って、殺されてしまったら誰にもクィレルが怪しいと教えることができなくなる。
(ドラコに話したら一緒にやってくれるだろうか。)
エレノアやメリダに悪事の片棒を担がせるわけにはいかないけど、一緒に抜け道ツアーをしたドラコならいいような気がした。
なんか悪ぶってるし、ちょっと校則を破るくらいしてくれそうだ。
明日会ったら聞いてみようとハリーは思った。
「と、いうわけで深夜にクィレルが禁じられた森で何をしてるか探ろうと思うんだけど。」
「……わかった。待ってろハリー。今医務室のベッドの空きを確認してきてやる。」
昼休み、今日は図書室ではなく外れの空き教室でドラコと落ち合った。昨日思いついた話を持ちかけたらいきなり額の熱を測られた。ハリーは憤慨して手をはたき落とした。
「熱なんかないから!君はイエスって言えば良いの!」
「すまないな、ハリー。僕は逆さ言葉を嗜まないんだ。誤解を招くからね。」
「イ!エ!ス!」
一言一言区切って噛みつくハリーにドラコはやれやれと首をふった。
「なんでこんな赤ん坊でもわかることを説明しなきゃなんないんだ?深夜に魔法生物がウヨウヨいる森になんて行ったら、死ぬぞ。」
「そこはほら、透明マントもあるし、森のほとりだったら大丈夫じゃない?」
「前世はチューイングキャンディかなんかだったのかい?禁じられた森は庭小人の巣じゃないんだ。」
ハリーがどれだけお願いしてもドラコはまともに取り合ってくれなかった。ハリーはだんだんと意固地な気分になった。
「あ、そう。君が付き合ってくれないんなら僕一人でやるしかないな。せめて友人のためにその口閉じといてくれるよね?」
椅子の上にふんぞりかえり、ハリーは脚を組んだ。マクゴナガルのように鼻を鳴らす。
「なんで君ってやつはそう壊滅的に頑固なんだ!?」
ドラコはたまらず悲鳴をあげた。禁じられた森なぞ、昼間だって近寄りたくないのに言うに加えて深夜なんて正気の沙汰じゃなかった。
どうにかして腕を組み、そっぽを向いている友人を押し留めようと言葉を重ねるがハリーはやると言ったらやる。全く暖簾に腕押しだった。
ドラコに残された選択肢は大人しくついて行って危険な目に合わないうちに適当な理由を付けてハリーを引っ張って帰ることだけだった。
ようやく諦めてうなづいたドラコにハリーは嬉しそうに笑った。
「じゃあ、決行は次の金曜日ね。君、一人で玄関ホールまで来られる?」
「ああ。」
寮から玄関ホールまでの間に先生かフィルチに取っ捕まったほうがよっぽど良いだろうな、と思いながらドラコはうなづいた。
そんな彼の心中を知りもしないハリーは入学後初めての校則違反と冒険に胸をときめかせた。
きっと父、ジェームズもこんな冒険をして過ごしていたに違いないとハリーは信じていた。
ハリーの無茶の方がジェームズより数倍向こう見ずで破天荒であったが死人に口無し。それを教えてくれる人間はいなかった。
計画が決まってからハリーはより一層クィレルの観察に専念した。他の人から見ればあきらかに様子がおかしかったが夢中だったハリーは全く自覚がなかった。
待ち望んだ金曜日の放課後、ハリーは談話室で宿題を片付けながらもソワソワと落ち着かなかった。
一緒に宿題をしていたメリダが痺れを切らして聞いた。
「ハリーったらなんでそんなに落ち着かないの?」
「え、そう?」
ハリーは素知らぬ顔をしたが、本心は今日の計画を話したくてたまらなかった。
「そうよ、ずっと落書きしてるじゃない。気になって仕方ないわ。」
真面目に宿題をこなしていたエレノアがペンを置いて頬杖をついた。雑談する体勢だ。
「あのね、秘密にしてくれる?」
そう聞きながら、ハリーはドラコと深夜に会うくらいは話しても良いかなと考えていた。
「良いわよ。」
「誓うわ。」
二人が神妙な顔をしてうなづいたので、ハリーは手招いて三人で顔を寄せ合わせた。
「今日、真夜中にドラコと会う約束をしてるんだ。」
ひそっと囁いたそのセリフに、メリダは口を引き結び、エレノアは目をまん丸にした。
「「うっそー!ハリーったら大胆!!」
異口同音に二人が叫んだ。
「大胆??」
予想と反するコメントにハリーは頭をかしげた。
「嘘、ハリーにそんな仲の人がいるなんて知らなかった、水臭いの!」
メリダがハリーの肩を掴んでガクガクと揺さぶっている。
激しく動く視界にハリーは酔いそうだった。
「いけないわ、そんなの早すぎる。私たちまだ一年生よ。」
対するエレノアは頬を染めて両手で口を押さえていた。
「そ、そんな驚くこと?」
友達と夜中に外出するくらい上級生は誰だってやってるのに、なぜ二人がこんなに反応するのかハリーには分からなかった。
「驚くわよ!ハリーったらおませね。」
「おませ!?」
メリダの口から飛び出した言葉にハリーは素っ頓狂な声をあげた。ベットを深夜に抜け出すのをおませで済ましてしまうなんてメリダは独特の感性をしている。
「何したか、後で絶対教えて頂戴。」
呆気にとられているハリーの右手をエレノアが固く握った。注がれる視線の真剣さにハリーは思わず身を引いた。
「よ、夜中に外出るのってそこまで珍しくないでしょ?」
訳のわからない二人の勢いに、最初のドキワクがどこかに飛んで行ってしまった。談話室だと言うことも忘れて普通に喋る。
その途端、後ろで冷ややかな声がした。
「私、貴方がそんな人だと思っていなかったわ。」
突然声をかけられてハリーは俊敏に振り返った。ハーマイオニーが腕を組みしかめつらをしながらこちらを睨んでいる。
「ベッドを抜け出すなんて、先生にバレたらどれだけ減点されるか、知ってるでしょ?それに、危険だわ。」
氷柱のように突き刺されて、ハリーは言葉に詰まる。
「ロンがあなたを悪し様に言うの、庇って損した気分。そんなこと、絶対にしないで。」
自分だってネビルやロンと何やらこそこそ企んでいるくせに酷い言いようだ。ハリーはムカッとした。
「君には関係ないだろ。」
顎を突き出してそっぽを向く。
「あります、グリフィンドール全体に関わることよ。」
ハーマイオニーも頑として引かなかった。
「君たちだって何か企んでるじゃないか。僕のすることに口出さないでくれる?」
痛いところを突かれて、今度はハーマイオニーがぐっと言葉に詰まった。ハリーを糾弾できるほど品行方正に生活していない自覚があったからだ。
「忠告はしたから。私、本当に知らないわよ。」
ふん、っと大きく鼻から息を吐いて、ハーマイオニーは行ってしまった。
台風一過。ハリーは深くため息をついた。
「ハーマイオニーってちょっと真面目すぎるわよね。」
二人の舌戦を固唾を飲んで見守っていたメリダがこそっと言った。
「ロマンスにスリルは付き物よ。私たち、協力するからね、ハリー。」
決意を宿した強い視線をエレノアに向けられる。ハリーは少したじろいだ。
「ありがたいけど、僕が捕まったら、知らんふりしてくれよ。」
なぜかやる気十分になってしまった二人にハリーは釘をさした。
深夜、寮全体が寝息に包まれた頃、ハリーは透明マントと忍びの地図を持ってベットを抜け出した。履き慣れたスニーカーの紐をしっかり引き絞る。
音を立てないように寝室から抜け出す。がらんとした談話室は暖炉の残り火が崩れる音しかしない。
ハリーは透明マントを被ると肖像画の穴によじ登って太ったレディを後ろから押した。
軽い反発とともに戸が外に開く。
その瞬間、
「今、入口が開いたわ!でもハリーの姿が見えない……」
ソファの影からひそひそ話が聞こえてきた。ハーマイオニーだ。彼女はハリーが抜け出すところを捕まえようとしていたのだ。
早めにマントをかぶっておいてよかった。
「見間違いじゃない?それか太ったレディが酔っ払って開けたとか。」
「そんな訳ない……とは言い切れないわね。全く、レディは寮の番人として泥酔だけは控えるべきよ。」
ハーマイオニーの声がだんだんと大きくなった。
太ったレディの勤務態度に憤慨している彼女を宥めているのはネビルのようだ。
ハリーはなるべく物音を立てないように壁の穴から飛び降りて入り口を閉めた。
「誰?!私に触ったの?」
姿の見えない何かに額を触られたレディが悲鳴を上げた。
ハリーは答えずさっさと玄関ホールに向かった。ドラコは無事にたどり着けているだろうか。
にわかに心配になった。ハリー自身思わぬ所から邪魔が入っている。彼だって順調に抜け出せているとは限らない。
足音を立てないように慎重に、しかしできる限り早くハリーは足を動かした。
松明に照らされた玄関ホールに人の気配はなかった。前もって打ち合わせしておいた箒置き場に向かう。
馬鹿正直に出入り口前で待ち合わせたりはしない。こんな開けた場所にぼんやり突っ立っていたら捕まえてくださいと言っているようなものだ。
うっすら開いている扉から中を覗く、小柄な人影が見えた。
「ドラコ、君かい?」
マントをかぶったまま聞いた。念のためだ。
「ああ、ハリー。……マントをかぶっているんだな?」
くるりと振り向いたドラコの視線がハリーを探して空を泳いだ。
ハリーは扉を体が入るだけ開けて、中に滑り込んだ。
透明マントをするりと脱ぐ。
「誰にも見つからず来られたんだね。」
「……おかげさまでね。」
ドラコはほっとしたようながっかりしたような微妙な表情をしていた。ゆるんだ輪ゴムみたいな口になっている。
ハリーは知る由もないが、ドラコはここに来るまで一切隠れていなかった。
禁じられた森に行くより減点と罰則の方が百倍マシだったし、ドラコが失敗すればハリーも計画を先延ばしにするだろうと彼は思っていたのだ。
何故かここ一番の強運を発揮してスムーズに着いてしまったのは誤算だった。この場合は悪運の類だろう。
「マントを被る前に地図を確認しなきゃ。ちょっとコレ持ってて。」
ハリーに透明マントを押しつけられる。ドラコは素直に受け取った。まるで水を持っているような手触りだった。相当上等な毛皮を使っているんだろう。家にあるものよりずっといい品だ。しげしげと眺める。
マントを観察しているドラコの横でハリーは杖に光を灯し、クィレルを探していた。
「いた、今ハグリットの家ら辺を歩いてる。……今日は、クィディッチ場の方に行くつもりなんだ。」
「……つまり、僕は眠れないのか?」
広大なホグワーツの敷地図を頭の中で思い浮かべて、ドラコは絶望した。
城の端から端まで移動するのだって小一時間かかるのに、さらに離れているクィディッチ場のそのまた向こうまで行ってしまったら帰ってくるのは明け方だ。
「ちょっとくらいは寝れるよ、大丈夫。」
「健全な11歳の必要睡眠時間は8時間なんだよ、ハリー。」
「僕らは不健全なのさ、ドラコ。」
怖気付くという言葉自体知らないような笑顔でハリーがニッと笑った。ドラコはめまいがした。彼女から視線を外して箒置き場の扉をぼんやり目を映す。
もうハリーは何を言おうと止まらない。
「じゃ、行こうか。マントに入ってくれる?」
ドラコは諦めてハリーと一緒に透明マントを被った。
二人一緒に包んでも、マントにはまだ余裕があった。裾を気にしながら玄関ホールまで戻る。
大理石の床で足音を消すのは至難の技だったが、靴底を擦り付けるようにしてじりじり進んだ。
ようやくホールから外に出られた時、二人は大きくため息をついた。
真夜中の校庭は真っ暗だった。城から漏れるかすかな明かりが薄く雪原を照らしている。
冬の冷たい空気がマントの裾から忍び込んできた。
「ねぇ、コレ。雪に足跡残っちゃうんじゃない?」
「そうだろうとも。」
城内とはまた別の懸念が湧き上がった。無情なドラコの言葉にハリーは冒険を辞めにして温かな寝床に引き返したくなった。
「無茶なことしてる気がする。」
「今更言うのか?!僕は初めから無謀だと思ってたさ。」
呆れた調子でそう言われて、ハリーは唇を噛んだ。作戦の穴が明確にわかってしまって悔しかった。
でも辞めるなんて、負けん気が許さない。ハリーは一歩進んだ。
さくり、足元の雪が音を立てる。
「いいや、捕まったらその時だ。このまま行こう。」
「その無計画に付き合う僕の身になれよ。」
「うん?未知の冒険にワクワクするって?」
「言ってない!!」
口では散々文句を言いながらもドラコはハリーと一緒に歩き出した。
真っ暗な闇と雪のかすかな白が支配する空間に二人は割って入っていった。点々と残る足跡だけが尾を引いている。
だんだんと森に近づいていく。風が吹くたびに木の枝がすれあってどうどう音が立つ。
見上げても見切れないほど高い木々が生い茂った森の入り口で二人は立ち止まった。
闇は深く、手元の杖灯だけが頼りだった。ハリーが地図を取り出す。
「クィレルはもっと奥にいるみたいだ。さあ、行こう。」
空いた左手でドラコの手を引く。突然、ドラコは迷子みたいな気分になって途方にくれた。
「一体全体、クィレルを追ってどうするつもりなんだ。」
禁じられた森に入るという過程ばかりに気を取られていて有耶無耶になっていた目標にようやく気がついた。
森に入ってクィレルの後をつけて、悪事を暴いて、それからハリーとドラコに何ができるのだろう。
悪事を暴いたところで、演技までして周りを欺いているクィレルはうまく言い逃れするだろうし、きっと証拠もつかめない。
ただ夜中に抜け出した事実だけがバレて、クィレルに目をつけられるだけではないのか。
それに気づいてしまったドラコの足は地面に根付いてしまった。
星明かりしかない真夜中に、もっと暗い森の奥に入り込む勇気が出ない。
揺れる木々が得体の知れない怪物みたいで、到底進めっこないと思った。
「スネイプが無実だって、証明したいんだ。」
ハリーが頑固に言い張る。繋いだドラコの右手をぐいぐい引っ張る。だけど彼は動かない。
真っ青になって覆いかぶさるような葉叢を見上げているだけだった。
染み込むようだった冷気も、だんだん突き刺すように強くなっていく。
吐いた息がそのまま凍るようだ。分厚いガウンを固く身体に巻きつける。
その時、がさりと質量を持った何かに押されて茂みが揺れた。
臓腑が腹の底から引き上げられる。ギュッと縮んだ心臓に二人はお互いの手を強く握り合って、息を殺した。
「そこにいるのは誰だ。」
低く唸るような声が問うた。
ハリーは歯の根が浮かないように固く口を引きむすんだ。
「目眩しの呪文か、まやかしのマントか、判断はつかぬがいることはわかる。私の矢が放たれる前に姿をあらわせ。」
言葉の通りに、茂みから矢尻がのぞいている。ハリーはゴクリと唾を飲んだ。ドラコが恐怖に固まり声も出せない様子でいるのを確認する。
「いるのは僕です。ハリー•ポッターと言います。」
名乗りながら一人、矢の前に体を晒した。
自分の名を呼ぶ、ドラコのか細い制止は無視した。
「……ハリー・ポッター?ルーナサの祭りに生まれた娘か?」
声の主は懐疑的な調子で言った。
「ルーナサの祭り?僕は八月一日生まれです。」
聞き慣れない単語に首を傾げながら答える。
「八の月が生まれる時が、太陽が目覚める時である。そうか、お前が白樺の娘か。」
ヌッとしげみから赤毛のケンタウロスが姿を現した。ハリーは掲げていた杖灯を自分に引きつけた。
ケンタウロスは顎髭を蓄えていて、顔には智の皺が走り、眉間に苦悩を湛えていた。
立派な体躯だった。ハリーは一歩後ずさった。
「杖を下ろすがいい。」
言われるままに右手を下ろした。逆らえない威厳があった。
とん、背にドラコの肩がぶつかる。
「冥府の王に愛された娘よ、お前はこれから三度死ぬだろう。我々は死を受け入れはするが歓迎はしない。再びこの森に近づくな。抜けぬ矢を、心臓に受けたくなければ。」
背後にそびえる森全体がそのケンタウロスの全てであるように感じられた。湧き上がる大地の気がハリーを包み息を詰まらせた。
木の枝1本、木葉1枚までがハリーを拒絶していた。
大いなる殺意に、抗えない敵意に、ハリーの膝から力が抜けた。
べしゃりと無様に座り込む。雪の冷気がすぐさま体を冷やした。
声も発せぬハリーを一瞥して、ケンタウロスは踵を返した。
足音が完全に消えるまで、ハリーは立ち上がれなかった。
「ハリー、帰ろう。」
森が再びしんっと静まった頃、落ち着きを取り戻したドラコがハリーの腕を引っ張った。
「……うん。」
触れる体温の暖かさに、ハリーは泣きそうになりながら立ち上がった。
関節が硬って、球体人形みたいにぎこちない動きだった。
二人は無言で城まで歩いた。ドラコは野蛮なケンタウロスのいうことなんか気にするな、と慰めたかったが、あの時の恐怖が喉に詰まって言えなかった。
ただ、冒険に顔を輝かせていたハリーが寒さに震え、怯えているのを見ていた。
ドラコに出来るのは彼女の手を強く握り離さないことだけだった。
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