祈り

 祈りは神に捧げるものだ。十字架の前に跪き、敬虔な首を垂れ、粛々と口にするものである。
 ならば神とはなんなのか。聖陽教が蔓延するこの国の、太陽神とはなんだろうか。ラフルスに御使いを送り、天照を建設したこと以外に太陽神が人を救った記録などないではないか。
 教会を併設する特殊消防隊に身を置きながらも、森羅はそう思ってしまうのだった。
 第八の教会は、一般市民へも扉を開いている。もちろん正式な聖陽教会も存在するため、信者はそちらに行くのが普通で消防隊にある教会はもっぱら遠方へ出向けない老人の為のものであった。
 森羅はあまり教会を訪れないが、帰路に着く信者を見かけはする。腰の曲がった老人の手を取り、シスターが優しく導いている時に荷物持ちを申し出たりもする。
 鎮魂後のミサや、日曜教会の際に祈る以外に森羅は全く神に跪かなかったので、毎日熱心に通っている人に触れると真夜中に目覚めたような気持ちになるのだった。
「森羅くん、悪いわねぇ」
「いえ! お役に立てるなら何よりです」
 その日、森羅は教会の前で途方に暮れている老婦人に出会った。初めて第八の教会に来たのだと言う彼女に案内を申し出たところであった。
 掃除に使っていた箒を隅に置いて、老婦人の手を取った。
「私は品川の方へ住んでいるのよ」
「随分遠くから来たんですね」
 歩きながら、婦人と他愛もない話をした。
「どうしてこちらまで? 中央教会の方がお近くですよね?」
「私の息子がね、あなた達にお世話になったから」
 穏やかな表情で婦人は言った。森羅はハッと息が止まり、視線が廊下に据え置いてある消化器へ行った。口の端が歪に引き上がる。
 しかし婦人は悪魔の笑みに気付かず、のんびりと話し続ける。
「ここで祈らせてもらいたかったのよ」
 婦人の表情に恨みや怒りはなかった。肩からずり落ちたショールを引き上げて、森羅の隣をゆっくりと歩き続けている。
「そ、うなんですね。わざわざありがとうございます」
「うふふ」
 どうして、とは聞けなかった。神はただ一柱であるのに教会を選んだ理由は聞けなかった。
 やがて森羅と婦人は教会に着き、森羅は婦人のために扉を開けた。中から蝋燭の灯りが溢れてくる。
「案内してくれてありがとう。お名前を知れてよかったわ」
 最後に婦人がにこりと笑った。それに、森羅の口は勝手に疑問をこぼした。
「どうしてですか?」
「森羅くんと第八の皆様をお守りくださいって言えるもの。名前をお伝えできるから、きっとちゃんと守ってくださるわ」
 扉に半分ほど体を入れた婦人がなんでもない風に笑う。その笑みに、神の姿が重なった。
 先程とはまたちがう衝撃で呼吸が止まった。神様にあった、という謎の気持ちがあった。
 その後の記憶は曖昧だった。夕食を食べながらも森羅はぼんやりと皿の上の野菜と肉を眺めていた。ベイクドポテトと切ったトマト。鶏肉のオーブン焼きが美味しそうに乗っている。
 食べ物を食べる行為が何か特別な気がしていた。あの後業務に戻ったから、婦人が帰るところには出くわせなかった。
 だけど婦人はきっとしっかりと神に森羅のことを祈ってくれたんだろう。パクと一口ポテトを食べた。咀嚼する。飲み込む。いつもどんな風に食べていたのか忘れてしまった。森羅の食事はゆっくりだった。
「森羅、腹痛か?」
 隣で食事を摂っていたアーサーの顔がヒョイと覗く。
「や、だいじょぶ」
 ふわふわと森羅は返事をした。
「様子がおかしいぞ? オレの肉もやろうか?」
 いつもだったら森羅の皿から奪っていく男が気遣わしげにそう言った。物をやるのが労りだと思っているのかと笑えた。
「大丈夫、大丈夫。自分で食え」
 そう言って押し返すとアーサーは渋々肉を皿に戻した。
「森羅、調子が悪いんですか?」
「風邪?」
 アーサーを大人しくさせたところで、茉希や環が声をかけてくる。森羅はもう声を出して笑ってしまった。
「いえ、ちょっとボーッとしただけです」
 そう答えたが、二人の声は桜備や火縄の耳にも入ってしまったらしくて、別の声が心配してくる。
「体調が悪かったらすぐ言えよ」とは桜備の声。
「無理はミスを増やすだけだからな」咎めるような調子ではあったが、火縄も心配をしてくれたのであろう。
 その温かさが、蝋燭の炎のようで森羅はうつむいてほほ笑んだ。あまり見せたくない顔だった。
「ありがとうございます。でもほんとぼんやりしてただけなんで」
 そう言ってニカッと笑って見せると、第八の面々もほっと表情を緩めた。
 森羅の正面に座っているアイリスがそっと手を合わせた。
「森羅さんの健康にラートムです」
 明るい表情でアイリスが言った。わざと軽い調子なのだろう。森羅を見る目は慈しみにあふれていた。
 その時、森羅は気が付いた。神は天上にいるわけでも、アドラにいるわけでもなくって、祈る人間の心の中にいるのだ。
 アーサーが森羅の為におかずを譲ろうとした気遣いも、茉希や環がすぐ森羅の様子を伺ったのも、桜備と火縄が心配してくれたのも、全部祈りの源なのだ。
 
 神を信じよとは、人を信じることなのだと森羅はしみじみ思ってしまった。
祈りでした


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