1-13 届かなかった
ケンタウロスに追い返され、二人は来た道をとぼとぼと戻っていた。話す言葉もなく、ただ無言で目の前の雪に足跡をつけていく。
夜空のわずかな明かりが雪に反射して少しだけ発光している気がした。
「なんで、僕にあんなことを言ったんだと思う?」
脅されたショックから幾分か回復したのか、ハリーが口を開いた。
「わかるもんか、野蛮人の考えることなんて。」
ケンタウロスとまともに問答が出来たなら魔法省が彼らを持て余すことなどなかっただろう。ケンタウロスは魔女や魔法使いと全く異なる生物だ。人であることを拒むモノを理解できる訳がない。そう考えて、ドラコは口を尖らせた。野蛮人の言い分に従っていることが腹立たしい。
ハリーは少し考えるように虚空を見つめていたが、やがてためらいがちにドラコの方を向いた。
「あの、ね、この前の休みに、僕に呪いがかかってるって教えられたんだ。」
暗闇の中にポンと放り投げられたセリフに、ドラコは目を瞬いた。反射的に隣を見るが、ハリーは視線を一瞬で反らして遠くの城を睨みつけた。
「それは、はぁ……」
なんと答えたらいいかわからない。適当に言葉を濁す。お気の毒に、とか、運が悪いな、とかそういう気持ちしか湧かなかった。
ハリーが友人でなかったなら、ドラコはそれらをそのまま口にしていた。だけど、友人だったからそういう余所余所しいことは言うべきではないと口を噤めた。
ドラコの微妙な態度に気付いてない風にハリーは続ける。
「生まれた時からかかってるんだって、もしかしたらそれがケンタウロスを怒らせたのかな。」
そうであって欲しい、と言外に言われた気がした。横目でこちらを窺うハリーの瞳には期待が見え隠れしていた。
彼女の誘導に乗るのがなんとなく癪だったドラコは、
「わからない。」
と答えた。
途端、ハリーは傷ついたように顔を伏せた。泣くのだろうか。ドラコは焦った。
「あ、でも呪いは珍しいモノじゃない。うちの寮のグリーングラスの妹も血の呪い持ちだと聞いたことがある。」
なんとか取り直そうと思って、思いついたそのままを言った。だけど彼女は俯いたまま、
「そうなんだ。」
と微かにうなづくだけだった。
追い討ちをかけてしまったみたいでいたたまれなくなった。もっと真剣に心配するべきだったのかもしれない。
でも急に呪いがかかってるなんて言われても、現実味がないのだ。
結局、ドラコは言葉を重ねず、黙々と帰路を歩いた。さっきの沈黙より、一層気まずくなった空気に、ハリーと一緒に透明マントをかぶっているのが辛かった。
一歩歩くごとに肩が揺れて、隣の体温を感じる。物理的な距離がやたら近い分、叫び出したいほどもどかしい。
やがて城の明かりが見えてきて、ドラコはほっとした。
ベッドに戻って一眠りすれば、ハリーのことだ。明日にはけろっといつも通りに戻っているはずだ。
城の大きな扉の前まで来ると、二人は顔を見合わせた。
そっと扉に耳を当て、中の様子を窺う。もし人がいたら、急に開いた扉を訝しがる。
扉はぶ厚い木だったが、微かに音を通す。誰かが言い争っているような声がした。
「言い逃れは見苦しいですよ、ミス・グレンジャー!」
大きく声を張ったのだろう、マクゴナガルの声がハッキリと聞こえた。
「でも、先生、本当にハリーのベッドは空なんです。確かめてください。」
負けじとハーマイオニーの声も聞こえた。
「捕まったんだ。」
ドラコはほくそ笑んだ。あの知ったかぶりの鼻が折れると思うと小気味が良かった。
「僕のせいだ。」
ハリーは顔を硬らせた。隣の友人切羽詰まった顔をするのをドラコは鼻で笑った。
「何をそんなに焦ってるんだい?あいつらは自分たちでドジって捕まったんだ。僕らはついて来てとも、止めてくれとも頼んでないじゃないか。」
「でも、僕が抜けださなきゃ、彼らは捕まらなかった。」
だけどハリーは頑なに自分のせいだと言い続けた。ドラコはわかっていなかったが、ハリーには森の賢者ともいわれるケンタウロスに追い返された事実がかなり堪えていた。
呪い持ちだと悩んでいるのも合わさって、必要以上に自分を責めていたのだ。
だから、ハリーはするりと透明マントから出た。
「……ハリー?」
驚愕したドラコのささやきに彼女はにこりとほほ笑んだ。
「僕が扉を開けるから、一緒に中に入って。マントと忍びの地図は君に預けるよ。」
「え?」
ドラコに聞き返す猶予すら与えず、ハリーは扉を押し開き、中に入った。
「マクゴナガル先生、ハーマイオニーが言っていることは、本当です。」
きっぱりしたハリーの声は、どこか遠くから聞こえてくるようだった。
二の句も継げず、ハリーに言われた通り城の中に入ったドラコは、彼女が激しい叱責を受けているのを背後に寮へ向かって逃げ出した。
後ろ手にハリーがひらひらと手を振っているのが見えた。
友人を犠牲に、自分だけ無事にベットに戻った時はあまりに情けなくて涙が出そうだった。
ルームメイトの寝息を聞きながらずるりとマントを脱ぎ、たたむ。
たたみながら、呟いた。
「あの時出て行ったって意味なかった。減点されるだけだ。僕は正しいことをしたんだ、わざわざ罰則を受けに行くなんて馬鹿げてる。」
罪悪感から逃げる為の方便だったが、声に出してみるとそれが正しい気がしてきた。ハリーは正義感に駆られて自首したようだが、それで得るものはグリフィンドールの更なる減点だけだ。
他のグリフィンドール生は名乗り出てほしくなかったに違いない。被害は最小限に抑えるべきだった。
ハリーがしたことは自己満足でしかない。きっとハーマイオニーもネビルも、感謝なんてしないだろう。
「なんて頭が足りないんだ。」
もう一度声に出して言えば、ひどい焦燥が幾分か落ち着いた。枕の下に透明マントと忍びの地図を押し込む。これらの隠し場所も考えなければならない。
「そうだ、僕が隠れていなきゃこいつらも没収されてた。あの場面じゃ、逃げるのが最善だったんだ。」
自分はハリーを置き去りに逃げたんじゃなく、貴重な品を守る為に撤退したんだと心の整理をつけた。
ざわめき立っていた気分が落ち着くと、長距離歩いて帰った疲れがドラコをすとんと眠りに落とした。
ドラコが寮に戻った頃、マクゴナガルからひとしきり説教を受けたハリーは暗い廊下を歩いていた。
自分の寮の生徒にも公正なマクゴナガルはきっちり一人50点減点し、更に罰則を言いつけた。
ハリーの後ろを肩を落としたハーマイオニーとネビルが歩いている。
「一人50点も減点なんて、みんなになんて言われるかしら。」
「考えたくないよ……。もしばーちゃんが知ったら僕、家に連れ戻されちゃう。」
沈んだ様子で二人は話していた。ハリーは気にしないように努めながら前を向いていた。
ケンタウロスに死ぬと予言されたハリーには減点も罰則も大したことないように感じられた。
その雰囲気に気が付いたのか、突然ハーマイオニーが噛みついてきた。
「あなたのせいよ。こんな夜中に抜け出すから。」
「僕は迎えに来てなんて頼んでない。」
勝手についてきたのはそっちだ。ハリーは振り向きもしなかった。
「……なんでわざわざつかまりに来たの?抜け出すのは構わないのに、うそをつくのは嫌なの?」
まさか言い返されると思っていなかったハーマイオニーはわずかに怯んだがそれでも口を噤まなかった。
「あなたの分も余計に減点されたようなものだわ。」
「減点と、マクゴナガルにうそつきだと思われるの、どっちがいいの?」
ハリーだって出ていきたくなかった。だけどあのまま逃げていたらハーマイオニーとネビルはうそつきの烙印を押されるし、二人だけ針の筵に座ることになる。
それを見過ごすのは、もっと自分を駄目にしてしまいそうで嫌だった。だから、勇気を奮い起こして出て行ったのだ。
「……」
ハーマイオニーは答えなかった。
彼女は失った信頼を取り戻すのがどれだけ大変かわかっていた。しかしそもそも捕まる元凶になったハリーに肯定もしたくなくて、ただ唇を噛んで黙った。
隣では、ネビルがはらはらしながらハリーとハーマイオニーを交互に見ていた。
三人はそれきり無言で歩いた。左右に備え付けられた松明が等間隔に廊下を照らす。
城は昼間の荘厳さを脱ぎ捨てて、生気のない不気味さを纏っていた。
歩くたびにカツリカツリ足音が響く。絵画はみんな寝静まっているようで、前を通るたびに寝息が聞こえた。
松明の落とす細長い影がハリーたちの前方を動いていた。
寮に着くと、おやすみも言わずにハーマイオニーはとっとと自分の部屋に消えた。
ネビルだけ、居心地悪そうにハリーの隣に残った。
「ネビルは巻き込まれたんでしょう?悪かったね。」
「ううん、行くって決めたのは僕だから。ハリーも何か大事なことがあったんだろ?」
ハリーは目を見開いた。ネビルが自分の思惑を理解してくれていたのに、驚いた。
「君は、そんなに自分勝手じゃないから理由があるんだと思ったんだ。」
あまりにハリーが驚愕しているので、ネビルはおろおろと言い訳をした。
「うん、僕にとってはとても大事なことだった。」
「そうだろう、うん。」
呆けたようにうなづくハリーにネビルはほっとした。
他人に自分のことを決めつけられるのは嫌なんじゃないかと、考えていたからだ。
「ありがとう、ネビル。」
「お礼を言われるようなものじゃないよ。」
うんうん、とお互いにうなづき合う。なんだか少し奇妙な光景だな、とハリーは思った。
それから、おやすみを言って各々の寝室へ上がった。ハリーは一晩で起きた数々の出来事になかなか寝付けそうになかったが、気が付いたら眠り込んでいた。
マクゴナガルが指定した罰則の為に、ハリーはフィルチに連行されてハグリットの家に向かっていた。
またこの時間に外を出歩くとは思ってもいなかった。禁じられた森の畔にある小屋でハグリッドは三人を待っていた。彼の足元で焚火がぱちぱちと燃えている。
にやにやと生徒たちを脅すフィルチから、ハリーたちを引き取ったハグリッドはまじめな顔をしていた。
「お前さんたちには俺の仕事を手伝ってもらう。」
ボウガンを背負い、ファングを連れたハグリッドが粛々と言った。
「何をするの?」
ハリーが聞く。
「森の見回りだ。」
ひっと息をのんだ音が聞こえた。ネビルが口を押えている。
ハーマイオニーもおびえたようにハグリッドの背後にそびえる禁じられた森を見上げた。
「あの、ハグリッド、僕、」
ハリーは背伸びをして手招きすると、ハグリッドにひそひそ耳打ちした。
「ケンタウロスに森に近づくなって、忠告されたの。」
「なんでまた。」
「わからない。でも、近づいたら射殺すって。」
「……あいつらの考えはカケラもわからん。だがオレには罰則を免除してやる権利がねえ。オレと一緒に行動してもらうしかないな。」
「うん、ありがとうハグリッド。」
神妙に礼を言うハリーの足元でファングがはぐはぐとローブの裾を噛んでいた。
よだれだらけになった裾がべちゃりと脛にまとわりついた。
「よぅし、行こうか。」
ハグリッドの声かけに、ネビルとハーマイオニーが小走りでそばに寄ってきた。
左右に分かれて、両脇でハグリッドのコートを握り締めた。
ファングのサービスに顔をしかめていたハリーは完全に乗り遅れて、森に入っていくハグリッドの後ろに続くしかなかった。
木の枝を踏みしめ、興隆した根を乗り越え禁じられた森を進んでいく。
ハグリッドの持つカンテラがフラフラ揺れて、薄暗い道をかすかに照らしていた。
やがて月の光が差し込む、少し拓けた場所に出た。
「ストップ!」
急に両手を広げて、ハグリッドがハリーたちを制止した。
ハグリッドは、ファングにカンテラを咥えさせると茂みに分け入った。
「おぉーい!お前さん達、コッチ来い!」
何かを確認していたハグリッドの呼び声に、三人は顔を見合わせると、足音を忍ばせてゆっくり茂みに入った。
「見ろ、ユニコーンだ。死後二時間くらいだな。」
真っ白な被毛を持った美しい生物が鬣を振り乱して地面に倒れていた。長い睫毛が覆う瞳はどんより開かれている。ユニコーンは濁った目でハリー達を見ていた。
体の下に銀色の液体が広がっている。
「殺されたんだ、ユニコーンを殺すなんて酷いことを……」
「どうして……?」
ほとんどため息みたいな声量でハーマイオニーが聞いた。
「ユニコーンは強い魔法生物だ。角も鬣も爪も皮膚も、血液だって強力な魔法薬の材料になる。だが、多分殺したやつは、血が欲しかったんだろう。」
「血が欲しくて殺したの?」
ハリーは一歩ユニコーンに近づいた。ひと目見ただけではっきりとわかる死が、ジェームズの死を思い起こさせた。
ユニコーンだって生きたかったに違いない。
「おそらく、だ。この分だと他の子もやられてるかもしれねぇ。オレらの仕事はそいつらを見つけて弔ってやることだ。」
ハリー達は蒼白になってうなづくしかできなかった。彼らを殺した犯人がまだ森にいるかもしれない。だが、目の前に横たわる、あまりにも無残な死が首を横に振らせてくれなかった。
二手に分かれて捜索することになり、ハリーはハグリッドと、ハーマイオニーとネビルはファングとともに行動する手筈になった。
何かあったら赤い花火を打ち上げるよう示し合わせて、大きな木の根本で左右に別れた。
大きなハグリッドの背を追って、森の中をザクザクと進んでいく。
だが少しも進まないうちに二人は踵を返すことになった。
「あ、」
パーン!破裂音と共に赤い花火が打ち上がったのだ。
それを見たハグリッドは瞬時にハリーを担ぎ上げると、藪を突っ切り花火が上がったすぐ下に一直線に走っていった。
巨大な体躯にへし折られた木の枝が点々と残っていく。
ハグリッドに運ばれ、ガタガタ揺れるしかないハリーは時折襲ってくる枝に顔を叩かれないよう腕で顔を庇っていた。
あっという間にネビルたちの姿が見えた。木の根元に蹲み込んでいる。
「なにごとだ?」
息を弾ませ、ハグリッドが聞いた。
「何か真っ黒な生き物が横切って、ハーマイオニーが足を挫いちゃったんだ。」
ネビルに肩を摩られているハーマイオニーは右の足首に手を当て、痛そうに眉を寄せていた。
「おうおう、ちょっと見せてみろ。」
蹲み込んだハグリッドは、大喜びで顔を舐めにくるファングをあしらい、ハーマイオニーの怪我を入念に観察した。
「こりゃ、もう歩かないほうがいいだろう。ハーマイオニーを俺の家に連れていくから、お前さんたちはここで待っとれ。」
「え?まだ罰則、続くの?」
まさか怪我をした仲間がいるのに続行するとは思ってもいなかったハリーは口を滑らせてしまった。
「当たり前だろう。罰則だからな。俺が勝手に切り上げてはやれねぇ。」
ハグリッドの態度はきっぱりしていた。ハリーはネビルと顔を見合わせた。こんな夜中の森でファングがいるとはいえ二人きり取り残されるのは恐ろしかった。
「すぐ戻ってくる。お前さんたちを連れてくと、倍の時間がかかるでな。大人しくしとったらなんにも起こらんよ。」
眉尻を下げ、口をひき結んだ二人を宥めるようにハグリッドはうなづき、さっさと木立の中に消えてしまった。
「とりあえず、座る?」
先ほどまでハーマイオニーが座っていた場所をネビルがポンポン叩いた。
「ありがとう。」
ハリーはカンテラを脇に置いてそこへ座った。
針みたいな枝が屋根になって二人を覆っていた。ファングがのしのし寄ってきて、ハリーの膝に顎を乗せて伏せた。
満足そうに息を吐き、眠る体勢になっている。
ファングの頭を撫でながら、ハリーは空を見上げた。明るい月夜だった。森は白い光に照らされていて、落ち着いていればそれほど怖くない。時折揺れる茂みや、遠くで聞こえる遠吠えにちょっと身を硬らせるが、歯の根が合わないほどの恐怖は感じなかった。
「静かだね。」
「うん。」
話題のない会話はすぐに終わった。ネビルもハリーも斜め前の切り株をぼんやり眺めていた。
深夜を超えた時間だ。11歳の体は素直に睡眠を欲していた。目を擦り、必死に眠気を払う。
(ハグリッドが小屋に向かってからどれくらい経っただろう……)
時計を持って来ればよかったな、とハリーは後悔した。
ネビルに時間がわかるか聞こうとした時、すぐそばの茂みが大きくガサッと揺れた。
ハリーはケンタウロスが来たのだと思って、ギュッとファングを抱きしめた。
「アッ……!い、たい!」
突然、ネビルが額を抑えて丸まった。尋常ではないネビルの様子にひゅっと息を吸い込んだ。
茂みにいる何かが、がさがさと音をたて近寄ってくる。
ハリーは息を詰め、それを凝視した。ちゃんと酸素が取り込めなくて、心音ばかり上がっていく。
ドクドク鳴る心臓が一際大きく脈打った。
来る…!
ぬっと、真っ黒な何かが姿を現した。
「ひっ……」
引き攣れた声がハリーの喉を痙攣させた。
ファングが飛び起き、吠えながら一目散に逃げ出した。
ハリーもずるずると後退りし、木の幹に手をついて立ち上がった。
黒い何かはゆらゆらと揺れながらゆっくり近寄ってくる。
逃げろ、と本能が警鐘を鳴らしていた。
ハリーは必死でネビルを引っ張った。
早く早くと焦る心が手元を狂わせうまくローブが掴めない。
また、化物との距離が縮まる。
手の届く範囲に入った途端、腕に嵌めた迷い指針が甲高い音を鳴らし始めた。
「な、なに?!」
ハリーは悲鳴を上げて、腕輪を抑えた。
同刻、スリザリンの寝室で、対の迷い指針も大きな警報を鳴らしていた。
鳴った瞬間飛び起きたドラコは依然鳴り止まないそれを恐怖に染まった目で見つめていた。
きっちりしまった天蓋の遮音効果でルームメイトはなにも気づかず眠り続けている。
ーー「警報が鳴るときは命に関わるトラブルに巻き込まれている状態です。」
脳裏に迷い指針の説明書きが蘇る。ハリーに命の危険が迫っているのだ、とドラコは理解していた。
迷い指針の針がグルグル回って止まった。指し示しているのは窓の外、その金の針に浮かび上がる文字は“禁じられた森”ーー。
ドラコは腕輪をもう片方の手で覆った。
「禁じられた森?禁じられた森だって?あそこにもう一度行けというのか?」
浅い息が混乱を後押しする。覆い隠した手の下の迷い指針から目が離せない。
誤作動では?そんな懸念が湧いた。
深夜に城を抜け出して森までハリーを探しにいく勇気が全く出ないドラコはその発想に縋り付いた。
「無理だ、また深夜抜け出すなんて危険は犯せない。それに、ハリーが森にいなかったら? 仮に危険が迫ってたとしても、僕が行ったところでなにも役に立たないじゃないか。」
警報に隠れるように呟く。うつ伏せに倒れ込み枕に顔を埋める。押し込んだままにしていた透明マントと忍びの地図の感触がした。
「これがあればいつだってどこだって行けるのさ。」
初めてこれらをお披露目した時のハリーの台詞が脳裏にこだました。
マントと地図があってもドラコは動けない。持ち主じゃないから使えない。勝手に使うのは不義理だ。そう言い訳して無視した。
この道具たちがどこまでも連れて行ってくれるのは、恐れを知らない勇敢さを持った主人だけなのだ。
臆病な預かり主であるドラコには、力を貸してくれないのだった。
指で耳栓をしてきつく目を閉じた。気づかなかったことにして眠ってしまえ。早く早く、眠気が来ますように。
罪悪感を胸の奥底に押し込めて必死に祈った。
その願いが通じたのか、ぱたっと警報がやんだ。
「きっと誰か助けに来たんだ。」
死んでしまった、という可能性を見ないようにしながらドラコは自分に言い聞かせた。
深く脈打つ自分の音に集中して、呼吸を繰り返す。
そうやって頑張って眠ろうとしても、その後ドラコに眠りが訪れることはなかった。
腕輪から鳴り響く警報にハリーは焦った。得体の知れない化け物を刺激してしまったらどうしよう、ほかのモンスターを呼び寄せてしまうかも、刹那の間にそればかりぐるぐると回った。
「ううう……」
足元から呻き声が聞こえた。あの化け物が近寄ってくるごとにネビルの汗が増している気がした。
彼の肩の下に手を入れて、必死に後退る。もう目と鼻の先まで接近しているのに、化物はこちらを嘲笑うかのようにゆっくりゆっくり近づいてくる。
ガツっとかかとが木の根にぶつかった。
「あ、」
ハリーは息を飲んだ。転ぶ。
止まったら捕まる。本能が言った。
尻餅をついた衝撃が頭を揺らす。もう化け物を見続けるのが恐ろしくて、ハリーは硬く目を瞑った。
その時、蹄の音が一瞬で近づいて、ハリーたちの上を何かが飛び越えた。
ケンタウロスだ。
この前出会った者ではない、そのケンタウロスが蹄を振り上げ、化け物を追い立てた。
黒い化け物はあっという間に後ずさると木立の向こうに姿を晦ました。
「大丈夫だったかい?」
奥底から響くような声でケンタウロスが聞いた。
金色の身体にサファイアの瞳をした美しいケンタウロスだった。
ハリーは詰めていた息をようやく吐いた。
「はい。」
「僕も、大丈夫です。」
痛みで蹲っていたネビルが汗を拭いながら起き上がった。
「本当に大丈夫かい?ネビル。」
あんなに苦しそうにしていたからたまらずハリーは念を押してしまった。
ネビルは苦笑した。
「うん、ごめんね。僕を置いて逃げても良かったのに。」
「バカなこと言わないで。一人で逃げて無事だったところで君を見捨ててたら生きた心地がしない。」
「そうだよね、ありがとうハリー。」
ネビルのローブに付いた土埃を払ってやる。汗に溶けた泥が頬にこびりついていた。それもハンカチを出して拭く。
「早くここから離れた方がいい。」
二人がお互いの無事を確認し合うのを興味深げに眺めていたケンタウロスが口を開いた。
ハリーたちは慌てて、彼に頭を下げた。礼を言うのを後回しにしていた。
「すみません、あの、助けてくれてありがとうございます。」
「ありがとうございます。」
ケンタウロスはまた口を噤んだ。驚くほど青い目にじっと見つめられると、羽箒に撫でられているようでそわそわと落ち着かない。
「君は、ネビル・ロングボトムですね?」
徐にケンタウロスがネビルに手を差し伸べた。
「ハイ。」
「私は、フィレンツェ。君は誰だろうか。」
ハリーはまた薄氷の上に立たされた。フィレンツェもこの前のケンタウロスと同じようにハリーの正体を知ったら弓を引き絞るかもしれない。
だけど、黙っている訳にも行かなくて、天に祈る気持ちで夜空を見上げて、名乗る。
「僕は、ハリー・ポッターです。」
フィレンツェは目を見開いた。
「白樺の娘……」
「え?」
囁き声が聞こえなくてハリーは聞き返した。
「いや、なんでもない。……君たちは早く森を離れた方がいい。あの化け物を見たでしょう。あいつがなぜユニコーンの血を求めているか、知っていますか?」
「いいえ」
ハリーが首を振る横でネビルも首を振った。
「ユニコーンの血は口にしたモノに仮初の命を与える。僅かばかりの延命を許す。しかし、この純粋な生き物の血が口に触れた瞬間、そのモノは呪われる。それ無しには生きられなくなる。生きながらの死です。だがアレはそれを承知で血を求めている。」
「なんで、呪われてまで血を……?」
青くなったネビルが恐る恐る聞いた。
「……今、ホグワーツにはあるものが隠されている。アレはその宝が手に入るまでの一時凌ぎとして血を飲んでいます。君たちは、学校に何が隠されているか、わかるかい?」
「「賢者の石……」」
「そう。」
「賢者の石、永遠の命を望む人物を、君たちは知っている。」
ドクン、と心臓が奇妙に脈打った。息を呑み込むハリーの隣でネビルがたたらを踏み、バランスを崩した。
彼の手がハリーのローブを強く掴む。
「ヴォルデモート……」
ネビルの囁きは、氷に浸かったみたいに冷えていた。
いつのまにか、森は恐ろしいほどの静寂に包まれていて、ハリーは深い穴に落とされた気分になった。
禁じられた森から生還した翌日の昼休み、ハリーはいつものようにドラコと図書館に来ていた。
「昨日、本当に大変だったんだよ。」
矢も盾もたまらず、ハリーはこそこそ耳打ちした。
「へえ。」
ドラコの反応は無機質だった。しかしハリーは気にせず話し続ける。
「変な化け物にあったんだ。それで、殺される!って思った時、あのね、ケンタウロスが、フィレンツェが助けてくれたんだ。」
「ふうん。」
ハリーはドラコの気のない返事に顔を顰めた。大冒険をしたのに、友人が感動してくれなくてつまらない。
「本当に死ぬかと思ったんだ。あの黒い化け物、ヴォルデモートだったかもしれないんだって。僕、殺されるかもしれなかったんだよ。」
どれだけ恐ろしくて、心細かったか、ハリーは熱心に語った。死ぬところだった、というのは少し大袈裟かもしれないが、ドラコに心配して欲しかった。
「……無事でよかったじゃないか。」
どうでもよさそうにドラコは鼻を鳴らした。ハリーは心を握り潰されたような気分になった。
目を見開いて、こちらをちらとも見ないドラコの横顔を見つめる。
彼は目の前の本に視線を落としていて、忙しなく左右に瞳が動いていた。
(僕が死にそうになったことはドラコにとって読書よりどうでもいいことなんだ。)
改めてそう認識してしまうと、臓腑がすべて抜け落ちて、身体が泥に溶けて消えたみたいな心地になった。
すっかり落ち込んでしまったハリーはドラコが先程から1ページも本をめくっていないのに全く気づかなかった。
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