1-5 閑話 形だけ、幸せ
閑話 スネイプの話
己の人生で最も輝かしい時はいつだと聞かれたらスネイプは間髪おかず少年時代だ、と答える。
他の年代と比べるまでもない。少年期にスネイプはリリー・エバンスと出会ったし、彼女と一番濃密な時間を過ごしたからだ。
スネイプの幸せは全てリリーの形をしている。そう言っても過言ではない。ただ一つを除いては。
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丘の上に古びた教会が見える。ちょうど日曜の礼拝を終えたばかりのようで両開きの扉からぞろぞろと老人たちが出てきていた。
ガーゼのような雲がかかった空から白い光が透けている。晴天ではないが曇天でもない。判断がつきかねる空模様だった。
スネイプはそんな空の日差しを避けるように、墓地の門近くにそびえ立つ大木の影に自身を溶け込ませていた。
ここで人を待っていた。もうすぐ8月も死ぬ。その前にリリーの娘を伴って彼女のもとへ行く予定だった。その娘を待っていた。
老人が行き交う間に小柄な人影が見えた。あれがリリーの娘だ。赤い髪を靡かせて墓地の方へ向かってくる。何度も見た姿だ。スネイプの憎き天敵が死んでから、そいつの娘を見舞いへ連れていくように校長から命令されてだいぶ経つ。
毎度毎度の日曜日、父親の墓を参る娘を急き立てて聖マンゴへ連れていくのがスネイプの仕事だ。
厭う仕事ではないが、好む仕事でもなかった。
その娘はリリーの生写しな姿をしていながら性格が父親そっくりだったからだ。
リリーらしくない幼少期のリリーを見るのは自分の存在を否定されているような気分になる。
スネイプは娘が門の脇を通るのを見計らって話しかけた。
「リリーの見舞いへ行く。」
ここでスネイプが待っているのを知っていた娘は露骨に嫌な顔をした。ジェームズの墓で過ごす時間を短くする為にこのタイミングで声をかけている。それを娘は知っていたのだ。
「父さんのお墓に挨拶してから。」
返答もいつしかこれしか聞かなくなった。初めはこちらの表情を伺って下手に出ていた彼女も、三年繰り返せばスネイプのしかめ面にも慣れる。
傍若無人なジェームズと同じく自分の烔眼にびくともしない。こちらをバカにしたような、呆れたような表情をリリーの顔で作る。頬の神経がピクリと引き攣った。
「早くしろ、面会時間は決まっている。」
何故こんな腹立たしい娘をわざわざ連れて行かなければならないのか。何度も繰り返した自問だ。
答えは単純でリリーの面会は血縁者を同伴してでなければ叶わないからだ。そうでなかったのならスネイプもこう毎週足蹴く娘の元へ来たりしない。月の半分は単独で訪れたに違いない。
返答をせずに娘はスネイプの前を通り過ぎた。なだらかな斜面を下り、ジェームズの墓まで真っ直ぐ歩いていく。スネイプもそれについて行った。本当はジェームズの墓など近寄りたくもなかった。だがあいつの性格を考えるに、目の前で(墓の前だが)最愛の娘をスネイプに連れて行かれるなんて業腹だろうから、敢えてそうしている。
死んでからの仕返しがここまで愉快だとは思わなかった。なんせ相手は死人。報復もなければ文句さえ言えない。
雲間から光が一筋降りてきた。遮蔽物のない向こうのほうへ真っ黒な空が見える。夜はきっと雨だろう。
前を歩く娘の紺色のスカートに光がかかる。歩くたび波立つひだが、生き物のように影を変える。
彼女は見慣れない服を着ていた。いつも動きやすさを優先して、スパッツに頭からすっぽりかぶるスモック状の服を着ているのに今日ばかりはワンピースだった。
襟元を四角く白い布に切り替えて、スタンドカラーとその周りを飾る同布のリボン。
膝を撫でる丈のフレアスカートだけが子どもらしい。移り変わる年齢にふさわしい洋装だった。
墓の前にひざまづく彼女を少し離れた位置から見る。
毎日訪れているだろうに今更何を話すのか。死人に話しかけても答えは返ってこないと言うのに健気なものだ。
微かに聴こえてくる娘の声に耳を澄ませた。
「父さん、明日、ホグワーツに行くよ。きっとここの教会に祈りにくるのも最後だね。……だってさ、神様なんていないんだ。僕がいくら祈っても母さんは目を覚さない。」
リリーは十年前のあの日からひたすら眠り続けている。精神を破壊されたわけでもなく、魂が消えたわけでもない。ただ規則正しく息をして、寝ている。
万斛もの呪いを引き受けてきた聖マンゴでさえお手上げの症例だ。
スネイプも独自に研究しているが未だに糸口さえ見つからない始末だった。
諦めはしないが、幾星霜を超えてもたどり着ける気がしなかった。
苦い思いに蓋をして目を瞑る。
再び目を開けたときには目の前に娘が立っていた。
やけに静かな瞳でこちらを見上げている。
「……スネイプ教授、ホグワーツでは望むだけ学べるんでしょう?私、頑張るわ。母さんのために。」
おそらくこれは同情、僅かな憐憫、仲間意識がこもった目なのだろう。湧き立つ泉のような揺らぎが、その緑の目に映っていた。光の仕業ではない。日はだいぶ前に雲が覆い隠した。
やるせなさが喉元まで迫ってきた。いま口を開けば、出てくるのは不可能だと娘の決心を打ち砕く為のセリフだろう。だがそれは同時にスネイプの諦めであったので、音にならずに済んだ。
「貴様の頭でたどり着ける深淵ではないがね。」
娘の、スネイプに追随する姿勢を見てとったので、その手を掴む。そのまま聖マンゴまで繋がる暖炉の元へ姿くらました。
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病院は不変的なものだ。いつきても様子は一向に変わらない。慌ただしく行き交うスタッフと口々に不調を訴える患者しかいなかった。
今更受付で病棟を聞く必要もなく、スネイプは一直線にリリーの病室に向かった。
その後ろを娘が小走りに追いかけてくる。子どもの短い歩幅ではスネイプの速度にはついてこられない。それを知っていても歩調を緩める気にはならなった。
長期入院患者向けの病棟の、一番奥。南の角にリリーの部屋はある。この一番日当たりの良い部屋を用意したのはスネイプだ。そのための費用も出している。稼ぎ頭もいないポッター家の財力では永劫この部屋を確保しておくのは不可能だった。それになによりジェームズの金でリリーを囲いたくなかったから、無理を言ってスネイプが支払いを引き受けている。
(もっとも、残していく娘のためにジェームズはいくつかの悪戯グッズの特許を取り、依然細々とポッター家の貯蓄は増えている。)
「開けたまえ。」
閉じた扉の前に娘を押し出す。鍵を持たぬものは入れぬ仕組みだった。
こちらを一瞥して娘が取手に手をかけて引いた。少しの軋みもなく滑らかに開く。
娘が中に入るのにスネイプも続く。部屋は予想通り明るかった。
「母さん、来たよ。」
そう言いながら娘がリリーのベッドに近づいていく。
狭い部屋だ。入り口から五歩で壁までたどり着く。娘はベッドを回り込み壁際に寄った。
そのまま地面に膝をついて両手をベッドの縁に添える。
リリーは変わらず安らかな顔で眠り続けていた。微かに上下する布団に安堵する。サイドチェストに置かれた花瓶に杖を向けた。生けてあった花が消える。同時に水も入れ替えた。
懐から新しい花束を取り出す。朝、自ら摘み取ったローズマリーだ。青と薄紫の小ぶりな花がついている。狭い部屋にハーブの強い香りが満ちた。
「……この部屋にその花束はどうなの、スネイプ教授。私、匂いで酔いそう。」
「お前のためのものではない。その減らず口、ホグワーツで叩いたなら減点するぞ。」
「職権濫用っていうのよ、それ」
布団の上に頬杖をついて娘が眇めた目でこちらを見ている。すぐそばにいる母親とそっくりなのにこうも湧いてくる感情が違うとは不思議なものだ。
リリーならば、いい匂いね。と笑顔を向けてくれるだろうに、娘がよこすのは呆れた目つきだった。
「リリーはそんな反応はしない。」
「知ってるよ。」
この掛け合いも飽きるほどした。何度繰り返しても少し寂しそうな様子を娘は見せる。だけどそれを何度見てもスネイプの心は揺れなかった。
娘に関する記憶は消えやすい。ダンブルドアがそう言っていた。だがそれはスネイプにとって注視しうる事柄ではなかった。リリーには娘がいる。そこで記憶が止まってしまっても何の不都合も感じない。娘の名前がおぼろげでもスネイプは平気だった。
沈黙が部屋に落ちた。ローズマリーの香りだけが華やかだ。
娘はリリーの手を取ると頬に寄せ息を吐いた。
「母さん、待っててね。」
娘の決意は陽光に溶けて消えるほど朧げに響いた。
本当に、形だけがリリーに似ている。
閑話休題
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