1-6 花を透かして
九月一日、待ちに待ったホグワーツ入学の日だ。ハリーはいつも通り自室のベッドで目覚めた。
ぱかりと目を開けると真っ白な天井が退屈に自分を見下ろしていた。外では小鳥が朝の歌を歌っている。ベルがきれいに洗濯して花の香りがするシーツから身をおこした。すぐ脇に置いてあったメガネを手探りで探す。それをかければ一気に視界が明瞭になる。薄いレースのカーテンからまだ青っぽい外の景色が透けて見えた。
「九月だ。」
指折り数えて待っていた日だったのに、どうしてだか今すぐ雨が滝のように降ってくれやしまいか、と思った。今日からハリーの世界は変わる。この長閑で緩やかな時の流れから飛び出して、新しい川を泳いでいかなければならない。
それにひどく緊張して、朝日が強い光を投げて寄越すまで、ハリーはベッドに座って窓の外を見ていた。
眩しさに目を細めてようやく、柔らかな木目の板が打ち付けられた床に足を下ろす。
ひんやりとした感触が肌から直に上ってくる。昨日の夜、最終チェックを終えたトランクが衣装ダンスの脇に立てられている。その存在感の大きさに、視線を奪われつつもハリーは支度を始めた。今日着る服はきれいな箱にしまわれている。この箱はジェームズが用意したものだ。新しい門出に立ち会えない自分の代わりにせめて、と随分前から隠してあったみたいだ。昨日の夜、ぽんっと目の前に現れたものだからびっくりした。
箱には、「最高にイカす服を用意したよ!これで新入生どもに差をつけろ!」なんて書いてあった。
突然の驚きと相まってハリーは腹を抱えて笑った。笑いすぎて涙が出てしまった。
しかもご丁寧なことに九月になるまで開かない仕掛けがされていた。
だから今ようやくドキドキしながら箱を開けている。そっと青い蓋を外せば、中には可愛らしいブラウスとスカート、ボレロが入っていた。丸い襟に木苺みたいなボタンがついている。
「可愛い…!」
ハリーは大喜びで洋服を取り上げた。
「あれ?まだ何か入ってる。」
洋服の下にはまだ一つ小包があった。
簡素な包装を解く。中には手紙と羊皮紙の切れ端と不思議な模様のマントが入っていた。
ハリーは手紙の封を切った。
『僕の愛しいハリーへ
入学おめでとう!君の立派になった姿が目に浮かぶよ。
ホグワーツではきっとたくさん友達ができるだろうね。いろんな冒険があるだろう。
父さんみたいに学校の隅々まで探索しても良いし、湖の大イカにちょっかいをかけたって良い。
君が望むなら十分気をつけた上で、僕はお勧めしないけど、禁じられた森を少し覗いてみるのもありだね。
本当にお勧めしないけど。
そんな夢いっぱいの学校生活が待ち受けている君に僕からプレゼントがある。
この二つはただのマントと羊皮紙の切れ端ではないんだ。
マントはかぶれば透明になれる透明マント。羊皮紙は学校の全ての抜け穴がわかる忍びの地図だ。
大事にしてくれよ、この二つは僕らポッター家の悪戯道具さ。
羊皮紙に杖をつけて、“我ここに誓う、我よからぬこと企むものなり”と唱えれば地図が使えるようになる。
消したい時は“悪戯完了!”と唱えてくれ。
この地図は僕たちが学生の時に作ったんだ。
実はこれは原本でね、新しい道を見つけたら地図に追加できる。
どんな風にやるのかは自分で調べてみてごらん。(僕の娘ならお茶の子さいさいかな?)
じゃあ僕のマトロナエ、君の幸せを願っているよ。
大好きだ、ハリー。
愛を込めて ジェームズ』
気付いたらハリーは泣いていた。ポタポタと涙が手紙に染みを作る。慌てて紙を遠ざけて袖で涙を拭った。インクが滲んでしまったら、まだハリーには戻せない。
「父さん、父さん」
メガネを押し上げて腕を目に当てた。寝巻きの袖がどんどん湿っていく。
一人でも大丈夫だと思っていた。父が死んだ日からハリーはたくさんの人と一緒に楽しく幸せに過ごしてきた。でも、ずっと昔に失くしたと思っていた愛がふと目の前に現れて、いなくなってしまったものの大きさを思い出してしまった。
父が生きていた日々を覚えている。忘れられるはずがない。木漏れ日の中で微睡むようなそんな日々だった。毎日、庭で新しい果実をもぐみたいな、素晴らしい記憶だった。
愛している、今も大好きだ。ジェームズがハリーにくれた愛はどれだけ体が大きくなっても何も変わらず心の中にあった。
グイッと強く目元をぬぐってハリーは父の顔を真似して笑った。
「父さんが城の道を全部突き止めたって言うなら、今度は僕が父さんにも見つけられなかった秘密を見つけよう!」
ギュッと胸元にマントと地図を抱きしめた。ジェームズの足音が聞こえた気がした。
「ハリー様、いってらっしゃいませ。」
玄関で妖精二人に見送られる。
ハリーはキングスクロス駅まで連れて行ってくれるバチルダの横に立ち、二人に体を向けた。
「いってくるねベル、クリーチャー。」
トランクを脇に置いて手を広げる。そのままわっと駆け出して、小柄な妖精たちに思いっきり抱きついた。
「いってくるね、手紙書くね、病気しないで元気でいてね。」
二人ともハリーの家族だった。初めての別離だった。大事な人と別れるのは寂しい。例え半年経てばまた会えるとしても寂しいのだ。
力一杯抱きつきながら寂しさを全身で表現する。
「お嬢様はおかしな方でいらっしゃいます。」
いきなり抱きつかれて硬直していたクリーチャーがひっそり言った。
「僕は君にとっていつだって変な子でしょう?今更なに言ってるの?」
ベルが苦しいです、ともがき出したので、二人から離れたハリーは首を傾げる。クリーチャーと暮らすようになってから、変だ奇妙だ変わってる、としか評された記憶がない。
それでもクリーチャーは首を振って、
「懐かしい気持ちにおさせになります。」と言った。
「お嬢様、サンドウィッチをベルはたくさん用意なさりましたので友達とお食べになってください。」
沈んだ様子のクリーチャーとは対照的にベルが明るく笑った。
それにハリーもお礼と微笑みを返す。いつだってお帰りを待ってますよ、とも言ってくれた。
「早くしないと乗り遅れますよ。ここから遠いんですから。」
依然別れを惜しんでいるハリーにバチルダの声がかかる。
わざわざキングスクロスまで行くのは時間の無駄でしかない、とでも言いたげな様子だった。
「あ、うん。じゃあ、二人とも僕行くね。」
ハリーも散々抱きついて気が済んだので、トランクを手に取った。
バチルダが魔法をかけてくれたから、羽のように軽い。
さっさと砂利道を歩いていくバチルダのシャンとした背中を追ってハリーも新品の靴で歩き出した。
丘を登る道は先の方へ伸びている。両脇に並ぶ木の柵も、もっと向こうへ見える教会も、今まで日常だったものにさようならを呟きながらハリーは淀みなく歩いて行った。
革靴の底の砂利は、いつもより硬い感触がした。
「達者でやるのですよ。私の生徒ならよく学び、健やかに過ごすこと。」
蒸気を吹き上げるホグワーツ特急の前で、ハリーはとうとうバチルダとも別れの挨拶を交わしていた。
「わかりました、先生。先生も歳なんだから気をつけてね。」
「まぁ、また余計なことを言って。セブルスに減点されないように頑張りなさいね。あなたこの調子なら無理だわ。」
やれやれとバチルダが首を振っている。先生だって一言余計なくせに、と思いながらもハリーは賢明に黙っていた。
トランクを脇に置いてバチルダの細い体に抱きつく。バチルダもハリーの背に手を回して抱きしめ返してくれた。
「あなたならきっと大丈夫ですよ。」
「先生、いろいろ有難う。」
一人になってしまったハリーとずっと一緒にいてくれた。いろんな知識をつけてくれた。話し相手になってくれた。どれだけ感謝しても足りなかった。バチルダがいない生活なんてもう二度と想像できない。
だから彼女の健康を心から祈った。ハリーが帰ってくる時にどうか出迎えてくれますように。
汽笛が鳴った。もうすぐ発車するのだろう。ハリーはバチルダを見上げた。
「行きなさい。置いていかれちゃうわ。」
「うん」
トランクを片手にハリーは列車に向かって駆け出した。乗り口の階段に飛び込んで、後ろを振り返る。
バチルダが手を振っていた。ハリーも大きく振り返す。気づけば他の生徒たちも窓から身を乗り出して家族に別れを告げていた。
「いってきます!!」
汽笛に負けないように声を張り上げる。蒸気がどんどん上がり、列車が動き出す。ガタガタ揺れる車体にしがみ付いた。
ホームが後ろに流れていく。一生懸命手を振った。列車が完全に駅を離れた。
「席を探さなきゃ……」
どっと湧いてきた寂寥感を押し込めるようにハリーは呟いた。並ぶコンパートメントはどこもかしこも生徒でいっぱいだった。同じくらいの歳の子供をこんなにいっぺんに見ることなんてなかった。
友達の作り方を知らないハリーは相席のための挨拶も分からず、魔法が解けてきてだんだん重くなるトランクを引きずりながら最終車両まで歩いて行った。
ようやく誰もいないコンパートメントを見つけてトランクを押し込む。
魔法が切れる前に荷物棚にあげることができた。それに安堵する。
羽織ってきた上着を脱いで、フックにかける。首に巻き付いたホーラが目を覚まして鎌首をもたげた。
「おはようホーラ。もう汽車に乗ったよ。」
指先で白蛇の頭を撫でる。
「ホグワーツで友達できるかな、ね、楽しみだね。」
相棒に話しかけながら、ハリーは車窓を流れる景色を眺めていた。
:::
スリザリン生が集まるコンパートメントの片隅でドラコは不満げに足を組み、外を眺めていた。
ドラコ以外の誰も彼も生き残った男の子の話に夢中だった。
今年入学するそいつは、なんでも純血らしく、それならば我が寮に入るに違いないとドラコの後ろに座っている上級生が盛んに捲し立てている。
自身の父親も絶対に生き残った男の子と友人になるように厳命してきた。
親が自分以外の少年に期待して目を輝かせている姿など見たくなかった。
(知名度があるからなんだ、僕だってやつと同じ純血なのに)
生き残った男の子の話をもうこれ以上聞きたくなかった。
苛立たしげにドラコが立ち上がっても、周りはちらとも目を向けない。
菓子に夢中なウスノロ二人を放って、ドラコは自分だけのコンパートメントを探しに行った。
発車してだいぶ経ってしまったせいで、コンパートメントはどこもいっぱいだった。
楽しそうにはしゃいでいる他の生徒の顔を窓越しに見ながら歩く。
列車の微かな揺れが窓ガラスをカタカタと揺らして耳障りだった。別稿のように艶めく床も、真紅の見事な車体もドラコが乗るにふさわしい列車なのに、自分が座る席がない。
通路に固まって喋っている女子生徒を押し除けた。窓越しに会話するくらいなら、さっさと中に入ればいいのに。頭が悪いと思った。
ズカズカ歩くドラコの背中に女子生徒たちの非難が投げられる。姦しい。
何両も通り抜けて、最後尾近くになった頃、ようやく人が引いてきた。この分ならまだ誰もいないところがあるかも知れない。
手近なコンパートメントを覗き込めば、中には一人の少女しかいなかった。
膝に本を置き、物憂げに窓を流れる景色を見ている。赤い髪に日差しが煌めいていた。
こっちを見ないかな、と柄にもなく期待した。
そっと取手に手をかける。開けてしまおうか、心が囁いた。
いきなり開けたらきっと驚いてこちらを見るに違いない。
あの子はどんな目をしているんだろう。ゴクリと唾を飲み込んだ。
列車が一際大きくガタガタ揺れた。
橋に入ったようだ。
西日が水面に反射して、窓の外が黄金に埋め尽くされた。眩しくて目を閉じる。
揺れに足をとられてつい取手に縋ってしまった。
力の方向に従って扉がガラリと開く。
反射的に少女がこちらを見た。
逆光が彼女の頬の産毛を照らし出す。
見開かれた緑の瞳は、まるで夏の湖面、妖精の光を見た気がした。
何か話さなければ、と乾いた唇を舐める。
突然扉を開けたドラコを少女はただ不思議そうに見つめていた。
「大丈夫?」
よろけたドラコを心配して少女が声をかけてきた。みっともなく転びかけたのが情けなくてドラコはツンと頭を振り上げた。
「なんのことだ?」
「……ふーん、なら良いけど。」
高飛車な態度をどう思ったのか、少女は楽しげに目を細めた。
つい眉間にシワがよる。馬鹿にされている気がした。
「なんだその「僕ハリー・ポッターっていうんだ。よかったらここに座らない?」
問い詰めてやろうと息を巻いたドラコを遮ってハリーが目の前の椅子を指差した。
ごく自然にうなづきかけた。寸出で静止して、少し悩んでみせる。
元々一人で寛げる場所を探していたのだ。多分ここが一番人が少ないだろうし、と自分に言い訳してドラコは大仰にうなづいた。
「僕はドラコ・マルフォイだ。君が望むならそうしてやろう。」
歓喜するに違いない、と確信していた。だって自分は名家の息子なのだ。魔法族なら喜ぶだろう。だけどハリーはそんな反応をしなかった。
「その喋り方、疲れない?」
ドラコをマルフォイ家のものだと知ってから落とされた、ハリーの慇懃無礼なセリフに脳が停止した。
「なに……?」
ある程度世論に明るいのなら、マルフォイと聞けば誰しも少しは居住まいを正す。こんな返答はされた経験がなかった。
「その喋り方、周りくどくて頭が疲れそうだなって。」
「僕は脊髄直結の話し方はしないんだ。」
「うわ、すごい。よく出てくるねそんな言葉。」
しかめっ面で言ったセリフにハリーが感心したように手を叩いた。調子が狂う。
腹立たしいのに怒り出す気になれない。
「君は一言多いって言われるだろう。じゃなかったら周りの品性を疑うね。」
「言われる……さっきも言われた……」
自分ばかり振り回されるのがシャクで言い返してみたら予想以上にハリーに刺さった。
うっとうめきながら両手に顔を埋めている。
落ち込む彼女を慰めるように、白い蛇がチロチロと舌を出していた。
「蛇がペットなのか?」
フクロウやヒキガエル、猫を連れている生徒はよくいるが、蛇はあまり見たことがなかった。
スリザリンのシンボルだからなかなか厭われる生物だろうにハリーは嬉しそうにその蛇を撫でている。
「そうだよ、可愛いでしょ。」
「まあヒキガエルよりましだな。」
スリザリンに所属するであろう身なので蛇は好きだった。特にハリーの蛇は美しい。でも大っぴらに褒める習慣がなかったから、素直に賛同できなかった。
それにハリーは凄まじく怪訝な顔をした。
「きみ、もしかして目が悪い?ホーラが一番綺麗じゃないか。」
俗にいう親バカなのだろう。わかってはいてもイラつく。
「生憎きみより視力はいいね。眼鏡なんて邪魔なものかけなくて済んでる。」
「やっぱり眼鏡邪魔だよね。僕もかけたくないんだけど、見えないから仕方ないんだ。」
ハリーと話してると自分ばかりから回っている気分になる。皮肉も挑発も全て斜め上に流される。
でも不思議と悪い気分ではなかった。ハリーはドラコのことをなにも知らないし、ドラコも彼女のことをなにも知らない。
そのせいか対等に話せている気がした。
「ねえ、きみのこと、ドラコって呼んでもいい?僕はハリーでいいよ。」
ニコッと笑ってそう聞かれた。首を傾げるのに伴って赤い髪が揺れた。サラリとそれが顔にかかる。緑の目が細められてドラコを見ていた。キラキラしていて綺麗だった。
列車の中の空調が壊れたのだろうか。暑かった。喉がやけに乾く。返事をしようにも、唾が絡んでうまく喋れない。
「うん、構わないさ。」
やっと出た言葉は思ったより明るく響いた。もっと渋々許可した感じにしたかったのに、これじゃ喜んでいるみたいだ。呼び捨てにされて喜ぶなんてプライドが許さない。でもそれを撤回したくもなかった。
「やった、有難う。嬉しいな、初めての友達だ。」
ドラコ以上に嬉しげにハリーが破顔した。笑い顔がさっきよりもっとくしゃくしゃになった。真っ白い歯がよく見える。宝物が出てきた、と思った。
変な気持ちになって落ち着かなかった。ドラコにとっての宝物は家にしまってある箒だ。それとはまた違うのだ。さっき抱いた気持ちは。
ハリーから目が離せなくなって、どうしようと困っていたら、車内販売の声が聞こえた。
これ幸いとドラコは立ち上がった。お腹は空いていないがこの気持ちを切り替えられるならなんでもよかった。
カートを押す魔女に声をかけようとした瞬間、横槍が入った。
「お腹空いてるの?……ならサンドウィッチ食べない?すごく余っちゃって。」
おずおずとハリーがバスケットを差し出してきた。中にはいろんな種類の美味しそうなサンドウィッチがたくさん詰まっていた。
「ベルが用意してくれたんだけど、食べきれなくて…残すのも悪いし。」
だからどうかな、と下から見上げられて、気づいたらドラコはうなづいていた。
お腹も空いてないのに、だ。
「本当?助かるよ、せっかく友達を作れるようにって気を回してくれたのに、僕友達作るの下手でさ。」
にこにこ笑う姿を見ていたら、なんだかもうどうでもよくなった。車内販売の魔女が目の前を通り過ぎていく。なんでこんなに素直でいられるのかわからない。
いつもの自分なら残飯食べるほど卑しくない、くらいは言ってのけるのにそんなの一言も出てこない。
ドラコは半ば放心しながら手渡されたサンドウィッチを口に含む。
苺ジャムとクリームチーズの甘い味がした。
おまけ
d「もう食べれない……」
h「頑張れドラコ、まだ半分残ってるぞ。」
d「きみが食べたらどうだ、元はきみのだ」
h「ウッ腹痛が……」
c「ここにいたのかマルフォイ、探したぞ。」
d「クラッブ、ゴイル!」
h「ドラコの友達?」
d「そんなものだ…お前たちが来てくれてよかったと初めて思ったよ。これを食べろ。」
c「え、いいのか?」
g「うまそうだな。」
h「食べて食べて、余っても困るから!」
g「お前いい奴だな…」
c「きっといいことあるぞ。」
夕日が沈みきった。列車はいよいよ人里を離れ、鬱蒼と茂った森の中を進んでいる。
暗闇の中でも真っ黒な木の影が窓を覆う。もしこの森の中に一人きりで佇んでいたのならさぞかし恐ろしい思いをしただろう。いる場所は変わらないのに、列車の中は安心だと感じる。不思議なものだ。
ハリーは空になったバスケットを荷物棚にあげた。中身を全て食べてくれた功労者二人はお互いにもたれあって眠っている。お腹が満ちた途端に居眠りを始めたのは見事だった。
おやすみ3秒を実際に見たのは初めてだ。前から友人同士であるドラコは慣れているのか行儀が悪いと眉を潜めただけだった。
カタカタと車輪の振動でドアが揺れる。この列車は沢山の生徒を乗せているはずなのに誰の声も聞こえてこない。ハリーは声を抑えて隣に座っているドラコに話しかけた。
「ねえ、どの寮に入りたい?」
ホグワーツに入学するとなったらまず気になるのが自分の寮だ。ジェームズに散々ねだって聞かせてもらっていた思い出話でも、彼が一緒に過ごしていたのはルームメイトだった。友人の多数が同じ寮になるのは明白だ。
「スリザリン以外ないね。僕の家はみんなスリザリンなんだ。」
逡巡もせずにドラコは答える。当たり前だという顔をしている。
「そうなんだ、家族だと同じ寮になりやすいんだね。」
スリザリン寮はジェームズの宿敵として度々話に登場していた。彼らの意地が悪いという話ばかり聞かされていたが、ドラコを見る限り詭弁のようだ。(確かに口は良くないけど)
「君はどうなんだい?」
「両親と一緒っていうんならグリフィンドールかな。」
ハリー自身はどこの寮でも良かった。友達が出来るかどうかの方かよっぽど気になる。
だけどグリフィンドールと言った途端、ドラコが少しだけ悲しそうな顔をした。だからハリーは慌てて、
「まあ、でも僕の父さんはもういないし、母さんも寝たきりだから一族全員グリフィンドールかどうかはもう誰にもわからないよ。」
と追加した。そして口が滑ったな、と後悔した。
知り合ってすぐにする話ではなかった。
多分可哀想だと同情されるだろう。ハリーは自分を哀れだと思ったことがなかった。
でも周りから見たら違うようで、村の老人たちは散々ハリーを可哀想がった。
同い年の友人からもそんなふうに扱われたら嫌だ。ハリーはそっとドラコを伺ったが彼は特に気にしていないみたいだ。
「寝たきり?どうして?」
魔法界の癒療で治らない病気は珍しい。気になるのも当然だが、ここまで直球に聞いてくる人は中々いない。だけどハリーはその返しにほっとした。
「闇の魔術のせいって聞いたけど、あまりみんな詳しく教えてくれないんだ。…だから僕は学校でそれを調べようと思って。」
重く受け止められたら話すのを戸惑ってしまうが、少しも同情していなさそうなドラコ相手なら教えてもいい。
何度聞いても誰に聞いてもリリーが寝たきりになった原因を教えてもらえないのだ。たった一人の母なのに。それが悔しくてハリーは自分で母親を目覚めさせると決めた。ホグワーツにはイギリス一の図書館があるとバチルダが言っていたから、きっと何か手がかりがあると思う。
「ふうん、大層な目標だな。」
「そうでしょ?勉強がんばらなきゃ。」
「ホグワーツの授業は結構レベルが高いと聞いたよ。」
「えー嬉しい。俄然やる気が出てきた。」
「気持ち悪いやつ。」
「うそ、勉強嫌い?僕割と好きなんだけど。」
ドラコにうげっと顔をしかめられた。
もちろんハリーも初めから勉強が好きだったわけじゃない。
バチルダがどうして学ばなければいけないのか、ハリーに教えてくれたのだ。
過去に学び未来に活かす、それを繰り返して人間は歴史を築いてきたのだとバチルダはハリーに語った。
「停滞は現状維持ではありません、退化です。人間は進歩する生き物なのですから。」と彼女は言っていた。
その時のバチルダは齢百を遠に超えた老人には見えなかった。ずっと歴史を研究してきた矜持が彼女の年齢を超越させている。
「だってさ、考えてもみてよ、みんなが知らないことを自分だけが知ってるって良くない?特に闇の魔術なんか、先生に教えてもらえる訳ないし。」
学びの楽しさについて身を乗り出して語るハリーにドラコはやや引いていた。だが、闇の魔術というワードが彼の興味をひいたらしい。
「……僕の家に闇の魔法に関するものが結構あるんだ。」
話に乗ってきたドラコにハリーは瞳を輝かせる。
「へー!すごいね。例のあの人がいなくなった時にそういうのはあらかた処理されちゃったんでしょう?君の家、隠し部屋とかありそう。」
「…まあないとは言い切れないな。」
ハリーが感心しているとドラコがさらに得意げになった。聞いてもないのに自分の家がどれだけ歴史のある建物か喋り出す。ハリーは喜んで聞いた。他の魔法使いの家の話なんて滅多に聞けない。
「十世紀ごろから僕の家は同じ場所にあるんだ。マグルが来ないように先祖代々固い守りをかけてある。僕は三人家族だけど、家が広いからしもべ妖精が十人いる。」
「しもべ妖精がいるの?僕の家は広くないけど二人いるよ、家族なんだ。」
思いもよらぬ共通点に口を挟んだ。笑顔のハリーとは裏腹にドラコはギョッとした顔をした。
「君、しもべ妖精を家族だって言った?」
「言ったよ、家族だもの。」
問い返されても全く意味がわからずハリーは首を傾げる。一緒の家で生活していたら家族だろう。ドラコの家は大所帯でいいなとさえ思っていた。
「……本気でしもべを家族だと思っているのか?」
彼はきっとしもべ妖精を人と同じく言葉を話す生き物だと思っていない。ハリーは腹が立ってきた。
「しつこいな、そうだよ。だいたいしもべ妖精の方が僕たちよりずっと魔法がうまいよ。知ってる?彼らは姿くらましができないところでも、現れることができるんだ。」
ベルとクリーチャーを馬鹿にされてる気がしてハリーの語尾が荒くなる。
「嘘だろ?奴らにそんな魔法が使えるわけない。」
ハッと鼻で笑われて、ハリーの堪忍袋の緒が切れそうにみちみちと音を立てた。
「それなら今度君んちのしもべ妖精に聞いてみなよ、ホグワーツに忍び込めるか?ってね。」
ハリーの剣幕を見て、ドラコは薄ら笑いをしまった。
「…忘れ物でもしない限りそんな機会は無いと思うけど、そこまで君が信じ込んでるなら覚えとくさ。」
「ふん、トランクごと家に忘れちゃえ。」
一度煮立った湯はすぐには冷めない。ハリーは不機嫌なままそっぽを向いた。
立つ瀬のないドラコも途方に暮れて窓の外に視線をうつす。外には未だ森が広がっている。
ハリーは横目でしょぼくれたドラコをこっそり見た。人のことを言えるほどハリーも人付き合いが上手い方ではないけど、ドラコは格別ヘタクソだ。
絆されかけて、やっぱりやめる。もう少しくらい反省しててもらおう。
しばらくはクラッブとゴイルのいびきだけがコンパートメントを支配した。
列車がトンネルに入った。窓から柔らかいオレンジの明かりが入ってきて、二人の顔をメリーゴーランドみたいにくるくる照らした。
ドラコの口がきゅっと一文字に結ばれている。きっと彼には謝る習慣がないんだろう。ハリーのこんなしょうもない癇癪なんて、ごめんと一言いわれたらすぐ萎んでしまうのに。
思ったよりドラコが反省しているようだったので、ハリーも怒ってるのが馬鹿らしくなってきてやめた。
晴々しい入学なのに、辛気臭い空気はごめんだ。
「ねえねえ、学校にはたくさん抜け道があるって知ってる?」
「……聞いたことはある。」
ハリーが話しかけたのでドラコの顔がするりと緩んだ。笑みになりかけたように口元がたわんでいる。
「僕の父さんは抜け道全部探して地図にしたんだって。」
忍びの地図についてドラコに教えようか迷いながらハリーは話していた。
まだ友達になったばかりだし早いかもしれない。でも一緒に城の中を探検する仲間も欲しい。
「抜け道、行ってみたい?」
「汚れるならごめんだ。」
うっすら聞いてみれば釣れない返答をされる。でもハリーには見えていた。ドラコの顔にデカデカと書いてある知りたいという文字が。
「ふふふ、授業始まったら行ってみようよ、特別に君にだけ教えてあげるさ。」
「……約束だぞ。」
「もちろん」
父親そっくりの笑顔を作る。とびきり陽気でとっても愉快な悪戯仕掛け人直伝の顔。
そうしてドラコを見れば、びっくりしたような顔をしたけど、それから少しだけ笑い返してくれた。
ホグワーツ特急が汽笛をならした。もうすぐ駅に着くんだろう。速度が徐々に緩やかになっていく。
窓ガラスに写る自分の顔に向かって、ハリーはもう一度にやっと笑った。
:::
ハグリッドと共に湖を渡り、大広間の入り口にたどり着いた。壁を隔てた先から大勢の人の話し声や笑い声が聞こえてくる。
ドラコと一緒に扉が開くのを待つ。マクゴナガル先生が迎えに来るまであとどのくらいなんだろう。周りの新入生たちが盛んに知り合いに聞いた組分けの儀式について教えあっている。
「それぞれの寮の石像が生徒を選ぶんですって。」
「いや僕は初級魔法の試験を受けるって聞いたよ。」
などと、多種多様な憶測が頭の上を飛び交っていた。
「親の職業の程度が知れるね。」
片頬を持ち上げて意地悪そうにドラコがハリーにささやいた。
「ホグワーツに通えた親だったなら、組み分けが帽子によって行われるくらい知ってるはずさ。」
ドラコの皮肉の意味を全くわかっていない顔で、クラッブとゴイルが忍び笑いをした。
ハリーは三人の態度が気に食わなかった。バカにするにしても陰湿な気がする。
だからわざとらしく嘆いてやった。
「あーあ、どんな組分けかワクワクしてたのに、なんで君ってやつはバラしちゃうのさ。」
ガックリと肩を落としてうなだれてみる。
「あ、っと、諸説ありとも聞いた。」
取り直すにしても急繕いすぎるセリフに落としていた肩が震えてしまった。
(諸説ありって……!)
あまりに愉快すぎて笑いが堪えきれない。右の拳を口に当てて必死に押し殺した。
「ふふ、ふ…くくッ」
だけどごまかしきれなかったらしい。
「君、僕をからかっただろう。」
憮然とした表情でドラコがハリーを見ていた。じっとりとした視線がさらに笑いを誘う。
もう耐えきれなくなったハリーは、手を離して笑い出した。
「あっははは、おっかしい。ドラコって素直だね。」
今度もわかっていないだろうにクラッブとゴイルもハリーに追随して笑い出した。
多分これはドラコがからかわれている様を見て笑ってるんだろう。
ドラコは睨みつける視線の先をハリーから二人に移した。
「笑うな。」
どすの利いた声を出そうともまだボーイソプラノの彼では迫力も出ない。なんとか二人も笑いを収めようと努力していたが、成果は芳しくなかった。あちこちに視線を向けて気を紛らわそうとしていても口元がにやけている。
腹立ち紛れにドラコが二人の腹をどついた。
その時扉がパッと開いてマクゴナガル先生が戻ってきた。
「行きますよ。」
先導されるままに彼女の後ろをついていく。
大広間に入ってまず目に飛び込んできたのは四つの大きなテーブルに、そこに座っている数えきれないほどの上級生たち。誰も彼も興味津々の顔でこちらを見ている。
それから空の写る天井。今は煌めく星空が頭上を彩っている。
「魔法で空のように見せているんですって。」
どこかの女の子の解説が聞こえる。
なるほど、と思いながら再び天井を見た。ちょうど流れ星が落ちていくところだった。
「転んでも知らないぞ。」
ふらふら歩いてるハリーをドラコが注意する。
「あ、そうだね。」
とハリーも視線を前に戻した。教員席の真ん中にダンブルドアが座っていた。ホグワーツの校長としての彼は見慣れなくて、まるでよその人みたいだった。
明るいブルーの目はハリーを見てはいない。誰か別の人を探していた。
ここでのダンブルドアはハリーの友人であるビーじゃなくて、ホグワーツ校長のダンブルドア先生なんだな、と実感した。
同時に寂しくもなった。気軽にビーとも呼べないだろう。
そんなことを考えていたらもう教員席の前まで着いていた。
ハグリッドがこちらに向かってウィンクした。ハリーもこっそり笑い返す。
「アルファベット順に名前を呼びます。」
というマクゴナガル先生の宣言から、組み分けが始まった。
A,B,C...と順番に呼ばれていき、とうとうL,Mまで来た。
「マルフォイ・ドラコ」
隣でドラコが身を固くした。しかし彼は瞬時に軽く笑みを浮かべて、前に進み出た。
組み分け帽子が頭に乗せられる。しばらくの沈黙、そして、
「スリザリン!!」
高らかに帽子が歌い上げる。ドラコがすごい勢いで立ち上がった。
なんだか猛烈に怒っている。どうしたのだろうと思う間もなく彼は組み分け帽子を鷲掴んで、椅子に叩きつけた。
「ミスター・マルフォイ!!」
マグゴナガル先生の叱責が飛ぶ。
「すみません、力加減を間違えました。」
明らかに八つ当たりだった。しかしマグゴナガル先生はドラコの早口の弁明を許した。
「次はないですよ。物を大切にしなさい。」
「はい。」
全校生徒の前で叱られたせいだろうか、ドラコの耳が真っ赤になっている。
そのまま彼は逃げるようにスリザリンのテーブルに向かって走っていった。
それから、そのあとすぐにハリーも呼ばれた。
「ポッター・ハリー」
「はい」
そっと前に進み出てスツールに腰掛ける。マグゴナガル先生が頭に帽子をのせてくれた。
「ふむ、うむ、面白い子だ。」
頭の中に声が響いた。
「勇気に満ち、ユーモアもある。特筆すべきは知識への貪欲さだろうか。」
ハリーは帽子の声をただ聞いていた。何も恐れる必要はなかった。
どこにいたってうまくやれるだろうと思っていた。
「レイブンクローでもうまくやれるだろう。だが君が友を求めるのならグリフィンドールがふさわしい。」
「友達が欲しいです。一生一緒にいられるような。」
ハリーがそう願ったらすぐに帽子は
「グリフィンドール!!」と叫んだ。
ワッとどこかのテーブルから歓声が上がった。きっとグリフィンドールの生徒たちに違いない。
早くテーブルに付きたくてハリーは大急ぎで帽子に手をかけた。
最後に何か帽子が言っていた気がしたが、その時にはもうハリーはグリフィンドールのテーブルに向かって走っていた。
沢山の上級生がハリーの肩を叩き、ハグをくれる。あったかい寮だった。
女子生徒が手を振っている。同じ新入生のようだ。ハリーはその子の隣に腰掛けた。
「こんにちは、私、メリダ・ルミスっていうの。よろしくね。」
「僕はハリー、ハリー・ポッター。」
「ハリーって呼んでもいい?」
「もちろん、僕はメリダって呼んでもいいかな?」
「ええ」
メリダは焦げ茶色の髪に灰色の目をした女の子だった。ニコニコと笑い合う。早速友達が増えそうで、嬉しい。ハリーとメリダが話している間にも組み分けは進んでいく。
今度はレイブンクローで歓声が上がった。男の子がそのテーブルにゆったり歩いて行く。
また次の名が呼ばれる。
「ロングボトム・ネビル」
大広間がシンっと静まり返った。細波のようにひそひそ声が広がっていく。
「ロングボトムってあの?」
「生き残った男の子?」
そんな中を小太りの男の子が進み出て居心地が悪そうに椅子の上で縮こまっていた。
今までの誰よりも注目されている組み分けだった。一分一秒が刻まれていく音さえ聞こえそうだ。
長い沈黙の後、帽子がやっと
「グリフィンドール!」
と叫んだ。ハリーたちのテーブルが爆竹みたいに跳ね上がった。寮生みんなが雄叫びをあげて飛び上がったのだ。
ハリーは完璧に乗り遅れて隣で同じようにきょとんとしているメリダと顔を見合わせた。
「ロングボトムを取った!」
叫び声の切れ目からそんな言葉を拾う。
ハリーも生き残った男の子のことは知っていたが、もし自分だったらあの事件で騒がれるのは嫌なので同い年だったとしても気にしないように心掛けていた。
恥ずかしそうにネビルがこちらに歩いてくる。上級生がたくさん駆け寄って彼の肩を叩き口々に歓迎を述べていた。
有名人は大変だな、と思った。
騒ぎがなかなか治らず、先生の声が聞こえなくなっていた。ネビルより前の組分けでよかった。
後ろに控えている子たちが所在なさげに立っている。
ダンブルドアが何度か杖から爆発音を鳴らしてようやく静かになった。
組み分けは最後まで続けられたが、生徒たちの気がそがれていてまるで消化試合のようだった。
夕食を食べ終えて監督生について寮へ向かう。スリザリンの列に並んでいるドラコにおやすみの意味を込めて手を振った。
だけど、ドラコはこちらを一瞥しただけで何も返してくれなかった。友達甲斐のないやつだ。
それとも寮が違うとあんな風になってしまうのだろうか。スリザリンに入れてくれって言えばよかったのかな、ハリーはしょげた。
寮が違っても仲良くできるものだと思い込んでいたから、さらに悲しい。
「どうしたの、ハリー。」
隣を歩いていたメリダが心配そうに言った。
「ううん、友達が気付いてくれなかったみたいで。」
無視された、とは言いたくなくってハリーは誤魔化した。
でもドラコのせいで、その後に見た城の大階段も太ったレディの後ろにある寮にも感動しきれなかった。本当に魔法の城にきたのに小骨が喉に刺さったままのような気分のせいで、楽しめない。
絶対明日はドラコに文句を言ってやろうと思った。
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おまけ
ドラコと組み分け帽子の会話
「ふむ、君は間違い無くスリザリンだ。」
「当たり前だろう」
「しかしつい先ほど抱いたこの恋心を大事にするならば、グリフィンドールも良い。」
「は?」
「君はなかなか愛情深い、この可愛い女の子を大事にしたいのなら、グリフィンドールでも…」
「スリザリン!スリザリン以外ない!」
「よかろう、それでは…スリザリン!」
みたいなのがあったりなかったりするといいですね。
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